あかんたれブルース

継続はチカラかな

ニコライの見た幕末ニッポン

イメージ 1




さて、わたしたち日本人とはどんな者達か?

明治の頃、新渡戸稲造はそれを欧米人に理解してもらうために
『武士道』を著しました。

欧米人にはキリスト教徒ではないこの極東の民を理解できなかった。

武士道に関してはこのブログでもさんざんにやってきましたから
それとは別に、本日は趣向を変えて外国人の目から観た
幕末の頃の日本人を紹介してみますね。

ニコライ堂って御存知ですか?
東京のJR御茶ノ水の駅を下った神田駿河台にあります。
異様な感じですよ。

これが竣工したのが1891年といいますから明治24年
日清戦争の三年前です。

正式名称は「東京復活大聖堂」。ニコライ堂のニコライとは
この聖堂のロシア人修道司祭(のち大主教)ニコライからとったものです。

彼が1869年(明治2年)に雑誌「ロシア報知」(読売新聞とは無関係)に掲載した
キリスト教宣教師から見た日本」という記事から


「上からは絶対専制、下からはひたすらに盲従、無知、愚鈍、
 そして同時に泰然たる自己満足と惰性、その結果たる鈍重と停滞。
 これが東洋の諸国についての我々の理解に必ずついてまわる概念である」


これが当時のロシア及び欧米人のアジア人に対する認識です。
しかし、
ニコライ大主教

日本人だけはそうじゃない。と申します。

これはニコライのお世辞じゃない。ニコライだけでなく
当時来日したインド、中国、東南アジアを知る欧米人の多くがそう感じた。


「日本人は、あたかも古い着物を棄て去るように、それまでの文明を投げ捨てる。
 そして、
 臆面もなくと言いたくなるほどの大胆不敵な手つきで、
 ありとあらゆるヨーロッパ的なるものにつかみかかっている」


なんか無節操な感じですが(汗)、
当時は必死だったってことはみなさんも御存知ですよね。
紙と木の建築文化っていうのも影響しているかもしれません。


「もし物理的に可能であったら日本人全体の半分が外国へ学びに出ていく。
 そう言っても決して過言ではない」

 そして日本人は、現在のヨーロッパの民衆と比較して
 はるかに好条件の市民的権利を持っているのに、なおそれに不満いだき


(↑)ここが重要。(↓)ここからが重要です。


「商人は、
 実際にはその税は決して重くないのに、あれやこれや税のことで不満言い。
 農民は、
 年貢の取り立てで愚痴を言う。
 また、
 誰もかれも役人を軽蔑していて、
 『連中ときたらどいつもこいつも袖の下を取る』と言っている」

「そして民衆はおしなべて、
 この国の貧しさの責任は政府にあると口をそろえて非難している。
 ・・・・
 それでいてこの国には乞食の姿はほとんど見かけないし、
 どの都市でも、毎夜、歓楽街は音楽と踊りで賑わっているのである」

               中村健介訳『ニコライの見た幕末』より


面白いと思いませんか? 
幕末の日本人も案外似てますよね。
いまのわたしたちに(笑)。




日本人像の本質(2)