ロマンと現実の共存
「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、
生きた財政は分からないものだよ」
これはドラマ『坂の上の雲』の第一回から登場した高橋是清の言葉です。
彼は日露戦争のときに日本債の公募を成功させる人物です。
その後に
総理大臣、農商務大臣、商工大臣各一回、大蔵大臣七回を歴任しますが
二二六事件の凶弾に倒れる。
是清の波瀾万丈の生涯から、この言葉には含蓄があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/49822734.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog291.html
彼は決してエリートではない。
わたしたちが学ぶ歴史のなかで明治の「藩閥政治」というものに
誰しも良いイメージはもたないものです。
超然主義、陸軍の長州閥、海軍の薩摩閥、山県有朋、薩摩の芋蔓式・・・
そういった過渡期から試験という篩にかけられて秀才たちが集まります。
ところが、
大変皮肉なことなのですが、この秀才たちが必ずしも優秀ではない。
いや、むしろ優秀すぎるところが問題なのかもしれません。
エリート意識にも弊害あるのか
それともやっぱり二八の論理なのか・・・
黎明期の明治という時代はそのあたりが曖昧だった。
名将黒木為■はどのような軍事教育は受けていない。
児玉源太郎は軍曹からの叩き上げです。
陸軍大学で長岡外史がビリで退学させられそうになったエピソード。
それをメッケルが救った話。秋山好古は下から二番目だったこと。
まあ、陸軍大学に入れただけでもエリートかもしれませんが、
そもそも秋山好古の場合は「騎兵」という少数派。陸軍では亜流です。
広瀬武夫も海軍兵学校では80人中64番目だった。
彼もエリートじゃない。
けれどもロシア研究に熱中していることを評価され選抜5名の枠に入ります。
広瀬が藩閥出身者だったら話はまた違うのでしょうが、
広瀬は薩摩でも長州でもない。
こういうところに、明治中期までの弛みというかゆとりというか懐の深さ、
情があると感じます。
いまだったら不透明だとか懐疑憶測の材料になりそうですね。依怙贔屓だって言って。
誤解しないでくださいよ。わたしは藩閥を擁護しているんじゃありません。
優秀だけでの篩が万能じゃないってことです。
秋山好古が伊予時代に日当天保銭一枚で風呂焚きをしていましたね。
あのとき天保銭一枚の貨幣価値を調べるのでネット検索すると
「天保銭」は別な意味として、
「明治以後、陸軍大学校卒業者が付けた徽章が天保通宝に似ていた事から「天保銭組」と称せられた。」
つまりはエリートの象徴として用いられてもいました。
皮肉ですよね。
また、「新時代に乗り遅れた人やそれに適応するだけの才覚の足りない人を揶揄して
「天保銭」と呼ぶ事もあったという。」
とのことです。
エリートは考えすぎて時代に乗り切れない。
そういった適応能力、創意工夫というかなんだろう?ロマンかな?
そういった才覚に欠ける場合もあるのかもしれません。
固定観念の壁ですかね?
つまり楽天家として坂をのぼれない。
「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、
生きた財政は分からないものだよ」
ついロマンと記してしまいましたが、
是清の言葉の「生きた」という部分が
これにあたるのでしょうかね。
つまり、そこに現実というものがあるわけです。
ロマンと現実。相反するものが共存していた。
明治とはそういう時代でした。
それは日本がまだ若かった頃の話です
。