あかんたれブルース

継続はチカラかな

堀川辰吉郎の出生になぜか黒田武士

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堀川辰吉郎の出生について
(1)戸籍上は明治24年とあります。が
(2)本人は、明治17年と語っている。もし、大正天皇と一分違いの出生だったら
(3)    明治12年の8月31日        

孫文と共に大陸に渡ったのが明治32年ですから、そとのとき
(1)だと8歳。(2)で15歳、(3)で20歳ぐらいです。

いくらなんでも8歳じゃ革命の足手まといですから(1)は、なし。
中村天風が16歳で軍事探偵として満州に渡っていますから
(2)でもおかしくはない。

さて、問題は(3)の大正天皇と同日1分違いという出生説です。
ウィキペディアでは
堀川辰吉郎の生母を千種任子(説)と表記しています。

明治天皇正室は一条春子(後の昭憲皇太后)。子供が出来なかったので
5人の側室が寵愛を受けました。
葉室光子(■)父は葉室長順(従二位。右大弁)藤原
橋本夏子(●)羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流。西園寺分家。伯爵。
柳原愛子(●■□)山城国京(京都)出身の公家。(子爵)
千種任子(●●)父は千種有任公卿(子爵)。
園 祥子(●■○○○■○●)公家としての家格は羽林家。(家格は伯爵)

●は女児で出産後一年以内に死亡。例外として千種任子の最初の内親王が三歳まで生存。
○は成人をはたした内親王
■は男児で出産後一年以内に死亡。

5人の側室が15人の子を産んで成人できたのはわずかに5人。
うち、親王は(大正天皇)一人だけです。

明治12年柳原愛子・早蕨典侍(さわらびのすけ)が親王を生むまでに
4人も急逝している。
この時期に、この状況で、はたして生まれた親王男児)を
宮中から排除するか?

というか5人とも名家の出身です。

そういうことを考えると権力勢力争い云々というよりも
千種任子・花松典侍(はなまつのすけ)の線は疑問です。
また、身分の低い女官だったことが
それの理由にもならないと思う。なぜなら、寵愛された時点から
位は上げればいいわけだし、実際に柳原愛子・早蕨典侍は当初は無位無冠でした。

じゃ、最初からこの話はガゼなのか?

でも、そんないい加減な話で井上馨が引き取るかなあ?

つまり、堀川辰吉郎は井上が京都の芸者に生ませた子で、
それを兄・伊藤重倉の五男とした。となっている。
日産の鮎川義介みたいな存在?

鮎川義介の母はの井上の実姉の長女。縁者としては遠いけれど
引き取って自宅に下宿させ薫陶している。

対して、私生児とはいえ実子の辰吉郎は福岡旧黒田藩の名家(?)堀川に出される。

黒田藩?

長州毛利と福岡黒田は隣どうしですが、これ犬猿の仲なのです。

しかも、玄洋社頭山満の庇護をえた。

条約改正、鹿鳴館外交、欧化政策の急先鋒だった井上馨の命を狙っていた
玄洋社の首領が頭山満なのです。

おかしい・・・

井上馨頭山満の接点・・・結ぶ者・・・

杉山茂丸だ。

ここにも登場しました。

旧福岡黒田藩の杉山茂丸




分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(2)
写真は大正天皇・・・似ては、いない。