いくななんでも皇族の子弟を殴れるか?
福岡で育った堀川辰吉郎はとんでもない悪童でした。
小学校時代には退校7回、転校3回!
それに頭悩ませる頭山満、杉山茂丸、安場保和福岡県令・・・
福岡中学に入学して地元のやくざと揉めて放火事件を起こす。
これが近隣住宅を焼く大火災になってしまう。
結局は、福岡では受け入れるところがなくなって
東京の学習院に転校。
ここでも無茶苦茶をやるのですが、なかでも
皇族の師弟三人をぶん投げた。不敬罪、大変な騒ぎです。
自伝ではこの時の校長を乃木希典としていますが、これは間違い。
乃木が校長を務めるのは日露戦争の後ですからね。
辰吉郎を明治17年生まれとすれば、明治29、30年あたりですから
田中光顕となります・・・ん? 田中光顕?
いくら井上馨の伝手でも素性わからぬ不良学生を学習院が受け入れるか?
まあそれも当時の長州閥の実力者の威力と考える人もいるでしょうが、
この時の校長が田中光顕で後の宮内大臣というのが臭う。
土佐勤王党で高杉晋作の弟子。中岡慎太郎の陸援隊に参加。
宮内大臣に就任は約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、
天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
(土佐派は薩長から弾き出されて民権運動と宮中でしか生きられない)
しかし、いくら悪ガキでも皇族の子弟に乱暴を働ける?
伊達政宗の直系で華族の子弟だった伊達順之助だって
素行が悪くて入学できなかった。
(関連本で順之助が学習院に入学。は間違い)
順之助の親が心配したのです。皇族の子弟に暴力をふるうことを。
それを堀川辰吉郎はやった(汗)。
結局、学習院も退学になって
この後に頭山満の紹介で孫文と会い、大陸に渡る。
そのとき(明治17年生まれとして)、15歳。
誕生日が来て16歳だったといいます。
分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(3)
余談ですが
辰吉郎以前に東京の悪童が福岡の頭山満にあずけられている。
中村天風です。(上の写真)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/tempu.html
天風も凄い、一人で陸軍の連隊と戦って粉砕します(汗)。
あげくには柔道遠征で向かった熊本で人を殺めてしまう。(一応正当防衛)
そこで頭山にあずけられ、軍事探偵として大陸に渡ります。
このとき、天風16歳。明治25年日清戦争前のことです。
その頃の彼を知る人は
「人斬り天風」と呼んで恐れたのだった。
小学校時代には退校7回、転校3回!
それに頭悩ませる頭山満、杉山茂丸、安場保和福岡県令・・・
福岡中学に入学して地元のやくざと揉めて放火事件を起こす。
これが近隣住宅を焼く大火災になってしまう。
結局は、福岡では受け入れるところがなくなって
東京の学習院に転校。
ここでも無茶苦茶をやるのですが、なかでも
皇族の師弟三人をぶん投げた。不敬罪、大変な騒ぎです。
自伝ではこの時の校長を乃木希典としていますが、これは間違い。
乃木が校長を務めるのは日露戦争の後ですからね。
辰吉郎を明治17年生まれとすれば、明治29、30年あたりですから
田中光顕となります・・・ん? 田中光顕?
いくら井上馨の伝手でも素性わからぬ不良学生を学習院が受け入れるか?
まあそれも当時の長州閥の実力者の威力と考える人もいるでしょうが、
この時の校長が田中光顕で後の宮内大臣というのが臭う。
土佐勤王党で高杉晋作の弟子。中岡慎太郎の陸援隊に参加。
宮内大臣に就任は約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、
天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
(土佐派は薩長から弾き出されて民権運動と宮中でしか生きられない)
しかし、いくら悪ガキでも皇族の子弟に乱暴を働ける?
伊達政宗の直系で華族の子弟だった伊達順之助だって
素行が悪くて入学できなかった。
(関連本で順之助が学習院に入学。は間違い)
順之助の親が心配したのです。皇族の子弟に暴力をふるうことを。
それを堀川辰吉郎はやった(汗)。
結局、学習院も退学になって
この後に頭山満の紹介で孫文と会い、大陸に渡る。
そのとき(明治17年生まれとして)、15歳。
誕生日が来て16歳だったといいます。
分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(3)
余談ですが
辰吉郎以前に東京の悪童が福岡の頭山満にあずけられている。
中村天風です。(上の写真)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/tempu.html
天風も凄い、一人で陸軍の連隊と戦って粉砕します(汗)。
あげくには柔道遠征で向かった熊本で人を殺めてしまう。(一応正当防衛)
そこで頭山にあずけられ、軍事探偵として大陸に渡ります。
このとき、天風16歳。明治25年日清戦争前のことです。
その頃の彼を知る人は
「人斬り天風」と呼んで恐れたのだった。