あかんたれブルース

継続はチカラかな

皇室の家なき子

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では、堀川辰吉郎は誰の子か?

16歳で中国に渡り、孫文の片腕として割拠する大小の反乱勢力への
密使として働いた堀川。そこには「日本の若宮」と紹介されていた。
孫文のバックに日本がついている。
それは絶大な効果がありました。

はたして、それはブラフだったのか・・・
しかし、革命途上の段階で海千山千の頭目たちが
そんなハッタリで信用しただろうか。

堀川辰吉郎天皇家の若宮だったとして、

わたしは生母を千種任子(花松典侍)とする説は違うと思う。
封印する意味が解せない。
女官の権力闘争対立では納得できないのです。
つまり、明治天皇の5人の(典侍)側室のなかに
堀川辰吉郎の生母はいないと「推理」します。

頭山満玄洋社は反政府として民権運動から発しました。
打倒藩閥政治です。それは杉山も同じ。
戦後の教育、マスコミの影響を受ける人たちなら不思議に思うでしょうが
二人の共通の親友に中江兆民がいます。
また大井憲太郎も出入りしているし、杉山は大井のライバル星亨とも親友。
この事実で、二人を戦後の右翼と同等考えることに無理がある。
頭山・玄洋社が民権運動団体から国権主義に変わるのは
長崎事件からだと記しました。この事件が日清戦争の導火線の火だった。
そのために頭山の盟友・箱田六輔を自刃している。

それでも、変わらなかったのが尊皇、勤皇でした。
それは杉山も同じです。

杉山の代表的な著書である、『百魔』にも『俗戦国策』にも
天皇論」が熱く語られている項目があります。

日露戦争の後の明治44年。翌年は大正と年号が代わるこの年に、
南北朝正閏問題」が起きました。

みなさんは中学、高校の日本史の授業で
後醍醐天皇、楠正成、足利尊氏が登場した南北朝時代を憶えていますか?
いわゆる『太平記』の時代です。
わたしはなぜか教師が声にした「北畠親房の『神皇正統記』」
という用語が深く記憶に残っています。今でも。
南朝」が正当なのだと日教組の教師は言った。

さて、この「南北朝正閏問題」。
南朝北朝か? 天皇家にとっては重大かつデリケートな問題です。
で、どうなったかというと「皇室は南朝が正統」とされた。

またこの時期に杉山は『乞食の勤皇』を報知新聞から出している。
杉山も南朝正当派だった。

けれども、頭山満は「南北朝正閏問題」を提示した
歴史学者喜田貞吉を追求している。

なぜか? つまり南朝を正当化すれば
現在の皇室は北朝であって、皇室自体を否定することに繋がる。
このジレンマに陥るわけです。

しかし、なぜ明治政府は南朝の正当性を認めたのか?
そこには明治維新大義名分があった。
幕末の志士が影響された水戸学の『大日本史』、頼山陽日本外史』から
そうしないといけなかったですね。

ここで、
「すり替えられた明治天皇」とか「毒殺」とか「傀儡」とか
の巷の謎の真実云々は別として、ですよ。

  もし、明治皇室が北朝系統であったならば、
  辰吉郎は南朝系の王子である。
  もし、明治皇室が南朝系統に変身していたならば
  辰吉郎は北朝系の王子である。

という推理です。

尊氏だって、まったく縁もゆかりもない者を光厳天皇とはしないでしょう。
順番からいえば大覚寺派の後醍醐天皇から持明院派の天皇という筋です。
それを断固拒否した後醍醐天皇
そこに武家社会対天皇社会復活があり、そこからボタンの掛け違いが生まれた。
やがて統一と後南朝から再び対立を繰り返し、そして南朝は途絶えた・・・
武家社会は徳川幕府に繋がれて、そして破綻する。
明治維新とは武家社会をひっくり返す革命だった。
だったけれどもさ、
正当性の優劣があったとしても、
どちらも天皇家の血胤にはかわらない。
武士だって天皇の子供達の末裔なわけですからね。

それでも、堀川辰吉郎の存在は非常に厄介なものだったのでしょう。
南朝を正当化しなければならない明治政府。
もしくは長州閥としては・・・


南北朝正閏とは、
どちらも、正統ではないが偽物ではない。
ものなのですから




分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(5)

画像は御存知水戸黄門光圀。明国の亡命者の影響で中華思想の後継者たる
我が国の正当性を確認するための歴史書編纂が皮肉にも徳川家転覆に繋がると、想像していたのか・・・
大日本史』が完成されたのは明治39年日露戦争講和の翌年です。なんと250年も要したわけです(汗)。