間抜けで金のない帝王
次は高島・樺山コンビで台湾経営の基礎をつくった件。
落合論文では四代目台湾総督・児玉源太郎の手腕による
台湾経営の安定化(民政長官・後藤新平とのコンビ)というよりも
そのベースは初代総督の樺山資紀と
副総督で薩摩ワンワールド総長・高島鞆之助によって既に確立していた。と説きます。
落合氏は杉山茂丸の存在は認めているのですが、
杉山は薩摩ワンワールド(高島)の伝令士という位置付けです。
(台湾経営には杉山の大陸通の経済知識がなければ成り立たない。
これは落合氏も認めている)
ここで確認。台湾の利権を樟脳のあると落合氏の指摘した正しい。
けれども、それ以上にその後の製糖事業と阿片の存在は大きく。
製糖事業を成功させたのは新渡戸稲造です。
彼を抜擢してその計画を実現したのは児玉であり後藤新平です。
児玉の台湾経営の基本姿勢は
「力だけで抑えるのではなく民福を充実させること」でした。
反乱軍のテロの大きな動機には貧困がある。
そして、日本の台湾経営は欧米植民地経営とは一線を画す。というもの。
さらに、大陸同様に阿片に侵される状況を改善するために
衛生・保健学の後藤新平の手腕の見せ所でした。
これによって、台湾の阿片禍は50年をかけて一掃されるのです。
阿片は毒でもあるが薬でもある。
国を亡ぼすけれども、医薬品としての価値があり
(これは落合氏も認めている)
金より軽く、紙幣よりも信用がある有価証券のようなものです。
日本はその国産化を国策とした。
後に杉山の一番弟子・星一が医薬品として星製薬を発展させる話に続く。
台湾経営は児玉・後藤・杉山によって成功した。
それ以前は治安が悪くて上手く稼働していなかった。
つまり、その成功の要因は製糖事業と阿片事業です。
また、台湾銀行の設立を提案したも杉山茂丸。
さて、樺山台湾総督の在任期間は
明治28年(1895年)5月10日から明治29年(1896年6月2日)の
約一年。この一年間で経営が軌道に乗ったか?
樟脳だけで莫大な利益得られた?
それ以上に、反政府組織の鎮圧でそれどころではなかったはずです。
もし仮に、台湾が潤沢な利益をもたらす地であったならば、
なぜ、高島の最大のライバルたる桂太郎を二代目総督に譲り
たった2年で交代したのか?
もし、台湾に魅力があったなら、あの世間師で中央政界に食指を動かす
桂太郎が就任を嫌がり、5カ月で(運動して)辞任したか?
政治には金がかかる。
抜け目のない桂がそれを見逃すものですか。
そんな桂に台湾の魅力を知らせるものなのか・・・
だとしたら、薩摩も長州も大間抜けである。
さらに、桂の後を継いだ乃木の台湾経営の失敗。
これは治安の悪さによるものと、清廉な乃木が商人を一掃させたのが理由。
この時、杉山は新総督乃木希典に面会を求めて拒絶された。
もし、杉山が高島の伝令士であれば、昵懇であるとする高島の経営戦略(?)を
なぜ乃木は受け付けなかったのだろうか?
児玉就任まで台湾経営は困難の一言に尽きた。
これを、児玉、後藤、杉山が語らって成功させた。
に尽きるの思います。
また、高島が薩摩ワンワールドの総長でその背景に莫大な資金を有していた
とすれば、彼の貧窮零落は何か?
それをカモフラージュだという。しかし、時にはホントに窮していたと認め、
実は内情はそうではないともいう。
なんか、薩摩ワンワールドというと凄いように聞こえますが
自宅を売却しなければならないワンワールドの首領というのも
切ないものがあります。
因みに、児玉源太郎は台湾総督を8年も続けました。
日露戦争中も辞めなかった。
台湾からの利益が機密費になったわけです。
日露戦争は台湾と九州炭坑と西本願寺の裏金と外債借金で戦った。
といっても過言ではない。
分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(13)近現代史のなぞなぞ(3)
高島鞆之助を薩摩ワンワールド総長とする疑問(2)
断っておきますが、わたしは落合氏を全面否定しているわけじゃありませんからね。
また、高島鞆之助や樺山資紀が嫌いなわけじゃない。好きです。
話の辻褄があわないのが気になるだけよ。