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継続はチカラかな

児玉源太郎の変節の理由

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日露戦争児玉源太郎杉山茂丸による
「二人だけの秘密結社」によって計られ遂行された。
後に、桂太郎を入れて、桂内閣を樹立させて、実行し勝利した。

これが杉山茂丸を知る、認める人たちとっての真実です。

その児玉も、そして杉山も
ある時期までは日露戦争回避論者でした。

児玉はどう算盤をはじいても勝てる公算がたたない。
すでに日清戦争以降そのシュミレーションはしていた。
なんたって陸軍次官を5年勤めていましたからね。

三国干渉を予測して、遼東半島領有に反対していた杉山も
それは同じです。

二人は南進論に賭けた。

ロシアの南下に対立するのではなく
日清戦争で獲た台湾から対面の廈門を経済的な窓口にして
日本の出口にして対岸(南清)経営、発展させていく。
それは中国を面とするのではなく、点(都市を指す)と考えるもので、
最初の発案者は桂太郎だっといわれます。

軍事的な支配ではなく経済的な流通拠点を拡げていく
台湾総督である児玉は後藤新平をたびたび廈門に派遣しては
その計略を実行させた。
児玉は山県、大山、桂などに根回しをしていた。

また、この計画には孫文の革命軍との連携もあった。
川上操六存命中に挫折した「布引丸事件」のリベンジの思いもあったでしょう。

明治33年(1900年)7月 義和団の蜂起にタイミングをあわせるように
それは実行されます。

そのきっかけは8月24日、
廈門の東本願寺布教所の焼き討ち事件から始まる。
それ以前に海軍は義和団鎮圧から廈門を占領する腹だった。
「在留邦人保護」を名目に
実際に「和泉」「高千穂」の陸戦隊が上陸した。
陸軍も廈門出兵に歩兵二個大隊を海軍の援軍要請を受けて向かった。

が、ドタキャンされてこの廈門出兵は失敗する。

ドタキャンの犯人は海軍大臣山本権兵衛の豹変だった。

「海軍の派兵は有事の際の調査研究のためである。
 陸軍の出兵はただちに取り消せ」

これに、山県(長)、桂(長)、大山(薩)は驚き懸命に山本を説得しますが
国際問題をたてに山本権兵衛(薩)は一歩も引かない。

なによりも伊藤博文が列強及び清国との摩擦を恐れた。

児玉の計画は失敗。これを廈門事件という。
また、歴史研究家はこれを児玉の経歴の唯一の最大の汚点とする。
東本願寺布教所の焼き討ち事件はヤラセだったのです。

児玉はこの事件後に台湾総督の辞表を出して徳山に隠棲を決意します。
最終的には明治天皇勅語によって思い止まりますが
桂は陸軍大臣を辞任してしまった。

児玉の行動を満州事変と同列視する研究家もいますが
それは根本から違う。
もし、この作戦が成功していれば、孫文の革命は成功し
日中同盟が成立。そして日露戦争は起こらなかった。と考えられる。

この挫折から、杉山と児玉は日露戦争を不可欠として
ふたりだけの秘密結社を作るわけです。

しかし、山本権兵衛の行動は不思議だ・・・

もし、仮に、
薩摩ワンワールドというものが存在していたとしたら
海軍オーナー山本権兵衛はその外だったのか?
また、その総長が高島鞆之助だとすれば、何をしていたのか!

ここにも落合氏の論法の苦しさ不自由さ不自然さがある。

山本権兵衛は後に二度政権を担う無視できない
薩摩出身の実力です。

もうすこし、山本権兵衛にスポットをあててみたいと思います。



分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(13)近現代史のなぞなぞ(3)
児玉源太郎の存在の捉え方(2)