あかんたれブルース

継続はチカラかな

ロマンを笑っちゃダメ



確かに、落合氏が指摘するように
幕末の薩摩藩は薩英戦争の敗北から英国と緊密な関係を構築させた。
(そこからの在英ワンワールドとの結びつきは云々は別として)

先月中旬に鹿児島に帰ったときに
鹿児島西駅(現中央駅)前の留学生のモニュメントが印象的でした。
薩摩藩は薩英戦争直後に15人の留学生と4人の随行員を
イギリスに留学させました。
これは「密航」にあたります。
攘夷思想からの大転換でね。それほどに西洋の技術を痛感したわけです。

彼らは留学を終えると帰国して
明治政府の要職に就き日本の近代化に貢献するのですが
この15人のうちの6人は慶応3年にアメリカに渡っています。
勉強し足りなかったでしょう。
そのなかに留学生最年少(留学時12歳)だった長澤鼎もいました。

彼ら6人はトマス・レイク・ハリスのキリスト教共同体「新生社」に入る。
この教団はキリスト教のなかでは異端とされる
新興宗教のようなものです。
19世紀には既成のカトリックプロテスタントに対する
新しいキリスト教が誕生した時代でもあります。
それは、古典物理学を越えようとする科学の世界でも
哲学の世界でもすべてにいえる潮流だった。とします。

この「新生社」も異端視されて迫害や中傷を受けたり
内部分裂を起こしてしまいます。

また、6人は明治政府誕生を知り、「新国家のために」という
最初の志から帰国しする。ハリス氏もそれを勧めた。にもかかわらず、
ただ一人、長澤鼎だけが残った。

長澤は教団運営のために経営していたワイナリーを引き継いで
それを発展させてカリフォルニアの「葡萄王」として成功する。

ここで、考えてしまう。
長澤はこの葡萄園を事業のためだけに受け継いだのではない。
ハリス氏の思想に共鳴したのです。
明治の志士たちが、そ立身出世のためだけにその青雲を夢見たえあけではない。
もう少し踏み込めば、新国家だけでもなく、そこのはある理想と浪漫があった。

富国強兵、国家主義自由民権運動不平等条約、列強の植民地支配など
の具体的な大義よりも名分以上に
「理想と浪漫」があった。だから長澤は残った。と考えられませんか?
高い留学費を藩に出させての留学だったわけです。
それでも自身の事業成功だけで残留できるものではない。

ここに大きなヒントがある。

変節という切り口で
民権運動から180度転換した玄洋社頭山満徳富蘇峰などを
解釈してしまう不自由がある。
政府要人と密接な付き合いをしていた杉山茂丸
民権運動家、たとえば爆弾男・大井憲太郎やそのライバル星亨と付き合い
はたまた中江兆民と親友であり、
無政府主義者大杉栄などに理解をしめしたりするのも
後藤新平が「赤」と批判されることも

彼らが自由であり、そこに彼らなりに「理想」があったからに他ならない。

とわたしは考えるのです。

それは彼らを在英ワンワールドの手先とする理論の矛盾でもある。
英国や米国の国益・国家戦略と歩み寄るだとか
そんなものではなく、ただ単に浪漫と理想があったから
人は動いたのだ。

甘いとか、嗤うかもしれませんが
人間の熱狂や情熱の源泉はそこにあり、
それこそがエロティズムの正体であると思うのです。
それが19世紀から20世紀初頭に確実にあったと。
それは国家と個人が非常に近い時代でした。

そして、もうひとつは
その理想というものと「宗教」が密接な関係であったという点です。
具体的にいうと本願寺日蓮宗であり、
幕末から明治に誕生した神道系の新興宗教であり、
また天皇制もそれにあたるでしょう。

堀川辰吉郎は欧米キリスト教的な支配主義を「覇道」として
中国の東洋的なそれを「王道」とし、
然るに日本は「皇道」であるべきだと考えた。

最終的に彼らの理想である皇道的なアジアの共存と独立は
夢となって挫折してしまうのですが
彼らがどうしたかったのか、なぜそうならなかったか
を探ってみることは決して無駄な作業ではない。
と、思うのです。


彼らは、アジアの独立運動に加担し協力し奔走していきます。
(それは決して英国や米国が求めることではなかった)

孫文の片腕だった堀川辰吉郎大本教に注目していった。
大本教・・・厄介なものが飛び出してきました(汗)。




分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(13)近現代史のなぞなぞ(6)