あかんたれブルース

継続はチカラかな

そこまでは座布団三枚。そこからは・・・



さて、青空会議の興奮も醒めやらぬなかで
わしは上原勇作の疑惑を追及せねばならんのじゃ。どうしても

落合氏は上原勇作こそ、薩摩ワンワールドの後継者、そして頭領だという。
そして、諜報スパイの首領だと。

で、軍事探偵の石光真清、日野強らは
上原勇作の部下だった。とする

まあねえ、上原は児玉の次の次の次の参謀総長だから、部下でもよろし。
いや、そうじゃない。もっと深っ〜い部下、しもべ、秘密結社のような絆の。
彼らは薩摩ワンワールド結社の草の者
上原が真田幸村なら石光真清は猿飛佐助、日野は霧隠れ才蔵。のような
ニュアンスでいう。

確かに、上原は参謀部附で諜報活動をやっていました。
これは、事実だ。
たとえば、『坂の上の雲』で川上操六が優秀な士官学校生を藩閥に関係なく
スカウトして軍事探偵に仕立てて大陸各地に派遣します。ちょっと引用
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 しかも諜報を諜報屋にまかせることをせずかれの配下である参謀将校のなかからもっとも優秀な者をえらんび、敵地に潜入させた。それらがいざ開戦のときには作戦を担当するという点で、他の国とのやりかたがちがっていた。
 たとえば明治十七年、清国が安南の問題でフランスと戦うや、川上は、
 「清国の軍隊を調査せよ」と、おおくの参謀将校を調査させた。大尉福島安正、同小島正保、中尉小沢徳平、同小沢豁郎であり、さらに少尉青木宣純に命じて南シナに三年間、潜伏させたのは、この付近が将来戦場になることを予想したからであり、作戦のための地形地理を調査させた。
 中尉小沢豁郎にいたっては、潜伏中、福州の哥老会という地下組織とむすび、革命運動さえおこそうとした。日本政府はこれをきき、あわてて本国によびもどした。
 明治二十年七月になると、将校の現地派遣はいよいよさかんになった。中佐山本清堅、大佐藤井茂太、同柴山尚則などで、彼らは北シナ方面に派遣され、沿岸上陸地点の選定、軍隊輸送の方法、上陸後の戦略目的の選定を主題に、朝鮮の仁川から芝罘を経、天津にいたり、大沽砲台を見聞し、北京にいたり、永平府街道をへて山海関にまで達した。
 すべてプロシャ式であった。この間、清国陸軍の機能はねむったがどとくうごいていない。
(以上、『坂の上の雲』文庫本第二巻「日清戦争」より)
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このなかにも、この後にも上原の名は出てきません。
彼が登場するのは工兵将校として、第四軍参謀長として

それを、落合氏は暴いた。
村岡伊平治自伝』(1960年(昭和35年)刊)
のなかで上原が軍事探偵していたことを。明治二十年の六月から六カ月間。
この村岡を伴って天津から南満州を軍事調査している。
ではなんで司馬さんはそれを逃したのか?
上原の自伝からその部分がカットされているからです。
まさか司馬さんも女衒の自伝なんかをチェックしないもんね。
その意味で、落合莞爾氏は偉い。

わたしはこの落合論文のこの箇所で膝を打った。それは七年ぐらい前かな?
まだ暴力団史を嗅ぎまわっていた頃です。
猪野健治の『やくざ親分伝』(ちくま文庫)に著名な親分衆にまじって
この村岡伊平治なる人物が紹介されていた。番外扱いで。その見出しは
「南洋を疾駆した大陸極道−
 異端の国際派アウトロー村岡伊平治

凄いですよ、この方は。なんたって妻が88人いたそうです。
これは堀川辰吉郎を上回る。(妾じゃない、関係した女性じゃない、妻が、だ。)
アウトロー村岡伊平治についてはまた語ります。

要は、わたしのは孫引きだったわけです。
(神坂次郎『おれは伊平次』講談社文庫で出てるんだね)汗))
でも、落合氏が「村岡伊平治」って指摘したときピンときて
本棚から探して確認した。そこのは「上原勇作」ってちゃんと名指しでありました。

まあ、参謀本部にいたから別におかしくない。でも落合氏は不自然だという。
それを恥じたなんかして意図的に自伝から外したと。
そうだよね。だから司馬さんも見落としたのだ。

ここまでは、落合氏に座布団三枚だ。


でもさ、そこからさきがいけない。


石光真清、日野強らは上原勇作(薩摩ワンワールド首領)の手先だった。

薩摩ワンワールド自体に疑問を呈しましたが
ここでまた石光真清や日野強を引き入れると、ちょっと違うんじゃないかなあ
と思うわけです。

ということで、石光真清をやります。次は日野力ね。




分類は「若宮」
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