猫じゃダメ
わたしは息子に託した手紙で、
(たしか3才のKちゃんへの手紙だったと思う)
大切なのは「知性と勇気」だとしました。
できればもうひとつ・・・
たぶん・・・「愛」なんだろうのなあ、と
愛については半信半疑で記した。
それからブログをはじめて、
ある人が切っ掛けをつくってくれて、
ようやく、愛を認識し、
それから紆余曲折、それを実感した。
要は、それだ、と確信できた。
人間が最終的に求めるもの、それは愛なのだ。
ちゃんとKちゃんへの手紙にも書いたよ。
ところが、世の中とは不可思議なもので、
その先にまだあったんだな。
その先にあるもの、それは自由だ。
これだ、これにトドメを刺す。
つまり、
杉山茂丸→(独立)→最終的には「自由」
馬太郎→(愛)→これも最終的には「自由」
人間は、自由を求めている。
そんなものはない。
平等とか自由とかはない、と北野武はいうだろう。
平等はどうだかしらないが、しかし「自由」はある。
で、その自由とは何か?
ランチバイキングでいえば、(おいおい)
その自由とは何か!
自分自身、自己からの解放である。
人間は不自由な生き物で、
誕生した途端にそのしがらみから逃れられない。
それは内と外にありますが
、一番厄介のは内なる不自由です。
人間が生きている以上、
自我もあれば、本能もあるし、欲もあり、知性もあって
学習効果から損得もわきまえる。自然な事ですが
実は、それじゃあ満足できないんだな。
人間が求める最終欲求は自由であり、そ
れは自分自身からの解放である。
これは、なかなか難しい。
けれども逃げられない大欲、欲望の極めです。
なかなか求められない。だから苦悩する。
真剣に考えすぎてうつになる人もいれば、
よく理解出来ずにうつになる人もいる。
うつが悪いわけじゃ、ない。
もっと質が悪いのは、
そんなものより手近なところで手を打つ人もいる。
それで身が持てば万万歳です。
人生は有限だし、その間、それに気がつかないで
いられればそれでもいい。
でもさ、その保証はないわけだ。
昨日まで、守銭奴拝金主義、
買い物やギャンブル依存症、
愛の狩人セックスの権化だった者が
本日なにかの拍子に虚無や空しさを感じることは、
たくさんあるものです。
大人たちは、そういった気づきを危険だと考えた。
知らなきゃそれですんだのに、
知ってしまっちゃあお仕舞いだと。
だから必死に考えないように努力する。
自分が努力するだけじゃなくて、他人にもそれを強要します。
じゃないと、自分も困るのだ。彼らも不安なんだね。
常識とはそういうものです。常に、いつの時代でも。
それもあって、夢とロマンは嗤われる。
愛は大義名分とされて、建て前として活用される。
危険だと感じている。
なぜならば、
その自由とは自分自身からの解放という意味合いから
「死」の存在を無視できないからだ。
それは間違っているのです。
それは自己否定とかそんな簡単なものじゃない。
自殺とかそんなお手軽なものではない。
頃合いはちょうどうよい時機にきたのだとわたしは思う。
それは、太平洋戦争敗戦から65年、
バブル崩壊から18年ぐらいかな?
肥大した「個人主義」が遂に二進も
三進もいかなくなってしまった。
みんなもうウンザリしている頃ではないだろうか。
別に、みんなが一斉に自由に群がる必要はありません。
群がったところで、そう簡単に手に入るものじゃない。
それには、
まず、固定観念の呪縛からの解放と価値観の再構築が必須。
こう書くと、なにか難しそうで、
どっかの新興宗教のようだけれど、
100年前の明治人は自然にそれを身につけていたわけだ。
人類の歴史で、100年なんて、一瞬の瞬きのような、
ついさっきの話だよ。
で、この時代に生まれたことをラッキーと思うべきだ。
長い試行錯誤を繰り返して、
ようやくここまでたどりついた。
21世紀のテーマはこれでっせ。
歴史のメカニズムは反復し螺旋を描いて上積みされていく。
上がれば下がり下がれば上がる。衝突の後は融合なのだ。
こういう語り口じゃ、難しいかな?
簡単にいえば、「人は呪わば穴二つ」って諺があるでしょ。
「自分さえよければ」という発想は、最終的に破滅に繋がる。
ということです。
でね、それは国家も組織も個人もすべて。
マクロとミクロは繋がっている。
杉山茂丸もそれを知っていた。
その著書『俗戦国策』の162頁の見出しに記されている。
「猫の様に独りで喰ってはイケない」
ちゅーこっちゃ。
杉山茂丸〜夢とロマン(6)