あかんたれブルース

継続はチカラかな

打倒藩閥政治の歳月



壮士(時によってはテロも辞さない)からの脱却に成功した
杉山茂丸

けれども、彼の初心は変節していない。それは、

打倒! 藩閥政治

「ちょっと待て、杉山はそうはいいながら長州閥と深く関与したではないか」

いや、関与はしても、最終的には藩閥政治を終焉させたのです。

その杉山の行動に、一人一党の社是(人是かな党是かな?)があり
国権にも民権にも傾かない彼の独立自立がある。

なにをもって長州「閥」とするかさえ、
わたしは昨今さっぱりその枠組みがわからなくなった。
それは、維新後の伊藤博文山県有朋の関係からいえと思う。

薩長閥政権の非を鳴らし、誕生した大隈板垣の民権政権に
ほおっておけば空中分解すると示唆する杉山に、民党嫌いの山県はご満悦。
と同時に、伊藤に政友会立ち上げを焚きつけて資金調達まで奔走する杉山。
それを知った山県は怒った怒った激怒した。
「この石田三成めが!」と出入り禁止となったほどです。
山県は政党嫌いですからね。

かくして、長州閥は伊藤の政友会と山県の超然派にまっぷたつ。
さて、長州閥とは如何に?

陸軍の法皇山県有朋を真性長州閥とするのか?

桂太郎児玉源太郎寺内正毅をその子分とするのか?

 けれども、必ずしも桂と児玉は山県に従順ではない。
 杉山茂丸児玉源太郎日露戦争秘密結社を作ったときの盟約には
 「そのときの盟主は伊藤博文」とあり、
 「もし山県が邪魔したら、山県を潰す」とあります。
 そして、その伊藤が日露戦争に反対し、日英同盟とは別に日露協約を期待すれば
 それを逆手にとって容認させ、日英同盟締結のテコ入れにしてしまう。
 そのとき、盟主は伊藤でも山県でもなく
 三人目の秘密結社新会員桂太郎内閣総理大臣だった。という顛末でした。

では、
文官なら三島通庸とか大浦兼とか清浦奎吾などを指す?

でも三島も大浦も薩摩出身。清浦は肥後熊本です。

また、寺内内閣に引導を渡すのが山県自身です。
それを杉山茂丸に頼むのだから世の中の因果というものは
誠に不思議じゃありませんか。

「寺内に早くやめるように言ってくれ」
「もう藩閥からは出さないでしょうね」
「約束する」

かくして、大正7年(1918年)9月29日に寺内正毅内閣は幕を閉じます。
これが日本の藩閥政治の終焉でもある。

ここに、杉山茂丸の悲願があった。
(寺内を首相に推薦したのも杉山ですよ。ここもポイント)

杉山は原内閣が誕生すると、故郷福岡に帰郷して
志なかばで倒れた盟友たちの墓前でそれを報告するのです。

「 諸君はうらみをのんで死んでいった。
  わたしは藩閥打倒につくすことを決意した。しかし、
  国家のことも考えなければならず、政党の粛正はそれ以上の大問題だった。
  そんななかをかけまわり、
  薩長以外の人物の入閣、発言権の増大への努力をした。そして、
  寺内内閣をもって藩閥時代は終わると山県に約束させた。
  長い年月がかかったが、やっと目的を達した。これで満足してくれ 」

で、ある。感動しないか。わたしは感動する。泣けるよ。
そういうことなのだ。
それでも、なんだかんだ揶揄するものもあり、こんなことで感動するのは
バカだというものもいるけどさ、斜に構えすぎると本質を見失うよ。
そういった拗ねた現代人と明治人とは人間の造りが違う。
わたしは、知性溢れる現代人よりも、おバカな明治人がいいな。

山県は死去するのは四年後の大正11年2月。
前年の宮中某重大事件から一年後のことである。
これをもって、完全に長州閥は瓦解したとえっても過言ではない。