あかんたれブルース

継続はチカラかな

さらに迷走していった



日露戦争後の中国は清王朝の没落から崩壊にむけて
まさに群雄割拠の時代となります。
これじゃあ、アジアの保全どころか支那保全も危ぶまれる。
これは日本の安全保障もおぼつかない。

ましてや日本は南満州鉄道の権益を守らないといけない。
  当時の中国在留日本人の数はうなぎ登りで、
  北清事変以前だと901名だったのが以後で3640名
  日露戦争後で2万1200名。その後は
  1910年で12万4428名
  1920年で21万6380名、
  1935年には一気に54万9752名!

なかでも日本は満州の権益保全に神経をとがらせていた。

群雄割拠の時代・・・

まるで三国志の世界です。
董卓袁紹袁術曹操孫堅、劉焉、馬騰孔融・・・劉表劉備など
歴史相似形をもってすれば、袁世凱董卓にあたるのでしょうかね。
南支の孫文は呉の孫堅でしょうか、後を継いだのが国民党の蒋介石孫権とか。
北支(南)満州は燕あたりと考えるのなかな?
そこの軍閥張作霖を支援した。

まあこれはお遊びですが、
日本の対中国外交・政策は非常に難しい。
諸外国の顔色も窺わなければいけません。
それに軍部はヤキモキしていたようです。軟弱だあ!と

複雑怪奇な陸軍。
児玉源太郎の急逝から情報収集を怠っていたと言われています。
でもその規模からみるとそうでもない。要は、
それを束ねる児玉のようなリーダーがいなくなった。
組織という存在が肥大化していくなかで、
個々の軍人が勝手に行動した、ともいえる。対立抗争を含めて暗躍したと。

福島安正や田中義一ではどうにもできなくなったわけです。
田中は長州閥の代表選手です。長州閥では動かせない。
ここに藩閥神話の実態がある。ともいえる。
(落合論文の上原勇作ですか? それについてはもう少し後で)

では、そんな軍部とは別に外務省はどうだったのか?

この当時の代表的な外交官・幣原喜重郎
田中義一の田中外交と対立する幣原外交は「不拡大方針」。
軍部からは「軟弱外交」と非難された。

軍部が悪玉ならば、幣原は善玉となります。
濱口雄幸とは学友で盟友ですから、わたしも善玉に入れたい。けれど

けれども、歴史(科学)に善玉悪玉はありません。
そんなに単純な話ではないところがこの時代の厄介なところです。
幣原の意志とは別に、
その外交政策を助けたのは彼を毛嫌いする軍部のなかの
一部の支那通軍人たちの暗躍とその成果が結果として幣原外交を助けた。
とても皮肉な現象です。

中国が迷走するように、日本も迷走していく。
強力なリーダーを欠いていた。これが原因といえるでしょう。