あかんたれブルース

継続はチカラかな

韋駄天、竹橋に走る



今朝、コメント返信をおえて、本日の記事を書き終えて
アップしようとしたら、むっしゅがコメントを入れてくれていた。
むっしゅ、お互い年寄りは早起きじゃのう(笑)

>>真実を語るを許さない。こういうのが、わたしは嫌だよ。

という先のわたしの返信に

>その真実が、誰にもわからないから、
>検閲はだめなんだよね。
>嘘も許容せざるをえない。自由のためには。

という、むっしゅのメッセージ。

むっしゅの言葉はときおりわたしを思考の彼方に向かわせる。

真実ねえ。確かにそれはいえる。

たとえば、人間には知的好奇心というものがあります。
これもまた、人間の欲求欲望であり原動力となったりする。
インディージョーンズの最終作でナチの女マッチョ大佐(工作員)が
宇宙人から「真実」を知る。その目的を達成する場面がありました。

そしたらどうなったか?

爆発して破壊粉々になった。
比喩的な描写だったけれど、なんとなくわからないでもなかった。

わたしたちは真実を求める。

けれども、ホントはそれを知るのが恐い。という気持もある。
悩ましいところです。

真実に向き合うことは、とても勇気を必要とするものです。

また、事実と事実を結んで導く真実の考察も
その結び方や手法にミスが生じて、
あらぬ真実になったりすることも多いものです。

そのミスリードの原因のひとつに、最初から結論が用意されていて
その裏付けのために、必要な事実を利用する。

人間は、効率的な思考法として、物事を細分化して考えます。
ここに、ときに、暴走が生まれる場合がある。
つまり、細分化を繰り返し、拡散して、各論だけが突出し
本来の本論と切り離されていく。

どっちにしても厄介なのだ。

さて、誰もわからない真実。
はたして、そういう真実に重要性があるものなのだろうか?
意地悪なむっしゅの問いかけに、わたしは膝を抱える。

「クルマ屋さん、ちょいと神田錦橋までやっておくれよ」

見上げれば三十路を過ぎたか過ぎないかの
小股の切れ上がった姐さんが立っている。

「生憎だねえ。いま考察中なんだ」

「そんな野暮いわないでさ。お代ははずむよ」

「俺は金じゃあ動かないんだ」

「あら、じゃあ何んで動くんだい、お前さんは?」

「そうさねえ、知的好奇心ってやつかな」

「今日、竹橋でAKB48の握手会があるそうだよ」

「姐さん、錦町でしたね。さあ、行こう。乗っておくれ」


ということで、本日は地下鉄竹橋下車の錦町界隈を
真実を求めて徘徊します。
むっしゅ、果報は寝て待て。わたしがきっと
誰でもわかる真実とやらをまさぐってくるから。




書き直してもこれじゃあ、な(汗)