あかんたれブルース

継続はチカラかな

まず平和を戦争を語るうえでの注意点

天皇と戦争の責任(1)


今はどうかは知りませんが、ひと頃の近現代史2ちゃんねるでは
論争誹謗中傷の血みどろの死闘聖戦のハルマゲ丼でした。

びっくりした。

誰が味方で誰が敵さえわからない。まさにバトルロイヤルです。

とにかく、知識をひけらかす。
そして、相手の無知をあげつらい罵倒し勝ち誇る。

新参者の参加者が現れると子供扱い、バカ扱い。
そういうのに、ほらほら馬太郎は青筋をたててますよ。
ここで「下駄さん」というリングネームで暴れたのが6年ほど前です。
場所は日露戦争、それも旅順攻略限定です。

「よし、じゃあ俺が相手だ」

よせばいいのに、いい歳をして、不特定多数の実態のない連中と対峙した。
勝手に相手に命名したりして、最初の相手は「雪駄さん」と命名してやったかな?
あとは今はもう思い出せない。サンダルとかヘップとか?だったかな?

彼らには聖書というか聖典をもっているという共通点があった。
一冊は『機密日露戦史』で、これは長州閥一掃後に陸軍大学の先生だった
谷寿夫という軍人によって著されたものです。
なかなか面白い本です。復刻版が出ていて、9450円也。

もう一冊は『公刊日露戦史』です。
これは公刊の、つまり正式な日露戦争に対する陸軍の記録です。が、
戦後、編纂にあたって、登場人物の高級軍人たちから圧力がかかった。
「俺のはこう書け」「もっと格好良く書け」「これは入れるな」
色々気を使って編纂しましたが担当責任者の大佐はその後、中国に左遷(涙)。

司馬さんの『坂の上の雲』のあとがきでも
その資料価値の危うさと、古本屋で二束三文の扱いであることを紹介している。
(せいぜい地図ぐらいは参考になる)
平成になってから、読売新聞の記者のコラム記事で、やはり市場での価値が
その信憑性の価値を証明しているというのがあった。確か切り取ってあります。

それでも、彼らは「論拠をしめせ!」を合掌する。
そこにはこの『公刊日露戦史』が座布団代わりに一冊、二冊、三冊、四冊・・・

以前、ある企画で、『公刊日露戦史』の真贋を立証と提案したら
太平洋戦史会・近現代史編纂会の平塚会長に怒られた。
「馬太郎さん、あれが何巻あるかわかっているんですか!
 うちにだって半分しかない」(えっ半分しかないの?)

そういう代物なのです。
(確か徳間書店からダイジェスト版が出ているのではないでしょうか?)

それでも彼らはそれを信奉する。一度その事を問いただしたら、
「公刊で在る以上それ以上の資料はない」という木で鼻を括った答え。


でもさあ、何かを語る上で、知識を条件にせねばいなないものか・・・
その知識の拠り所は「事実」と限らない場合も多いわけですしねえ・・・
無論、他にも資料はあります。けれどもそれを認めない。

歴史考察は一方向からだけででなく多角的な視野にたって
それこ俯瞰したり近づいて裏表ひっくりかえしたりして推理する。
そこに醍醐味があるものです。

そう考える、自分自身もやはり「知識」というものを拠り所にしている
矛盾を感じる。ただ、相手との比較だけの問題なのかもしれない。
その意味で偏重はどちらにも危険が伴う諸刃の剣です。

陰謀説の話ですが、森村誠一が暴いた七三一部隊(石井細菌研究所)を
http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
粉砕したのは意図的に流されたガセネタを森村誠一が資料に用いたことだといいます。
つまり、極端な話ですが99%が真実でも1%の誤りがあると
すべてが疑われてしまい、否定されてしまう。
だから、表記には注意しなくてはならないのです。

今回、平和への祈りとして、戦争の悲惨さを訴えるために
いくつかの事例が提示されました。たとえば南京大虐殺
この事件は現在、色々と物議、論争の未確認の事件です。だから、
これを引き合いにするのは危険なのだ。

わたしは、南京虐殺はあったと思います。しかし、
中国側のいう表現にはとても納得できない。
これは表現とか主張の問題ではないのです。これをそのまま立証の材料にすれば
その根底から足をすくわれる。
その意味で、非常に脇の甘さを感じてしまうのです。
どこかで、戦争反対、平和のためななら、という大雑把さがある。
それが戦争を美化しようとするかっこうの餌食になってしまう。

南京虐殺はあった。しかし、それを大虐殺とアピールするのは
中国(国民軍時代から)の政治カードであり、プロパガンダ、工作である。
まず、これで間違いないでしょう。
だからといって、日本に責任がないとはいわない。美化なんかしない。

今回、しきちゃんが北朝鮮将軍様万歳と大暴れしたけれど、
あれはある意味で、皇民党の竹下褒め殺しと同じで、
別にわたしは痛くも痒くもないけれど。

一般的な、それも常識ある平和の飛びかけに
そういった未確認で捏造を懐疑される事実を例にして、
日本がいかに悪徳だったか、そして戦争は悪であるという論法は
非常に微妙で悩ましいのです。
そういう記事が、もしかするとわたし自身を、このニュートラルな馬太郎を
右翼陣営に奔らせるやもしれん。
そういう衝動に実際にかられる。そういう効果がある。これは弊害だ。

平和を語ることに「知識」という条件は必要ないのだけれど、
(まあある程度は必要ですよ。その度合い基準の話ね)
曖昧な事実を、真実として、例にするのは、よくないよ。絶対に
それこそ、戦争を美化する者達の思うツボになってしまう。

ここまで、書くのにも非常に神経を使っています。
思いのままに書き進めれば、気持も良いだろうけれど、
こと、この問題はデリケートですから、その辺は慎重にいきましょう。

平和を願うのはみんな一緒なのだから
そういった所でいがみあうネタをあえてそのまま直線的に出すこともないでしょう。
それを入れるなとはいわないけれど、すこし気配りすれば
それで充分に用は足りるし、誤解も生じず、また悪用されないと
思います。