あかんたれブルース

継続はチカラかな

黒部の家族旅行

天皇と戦争の責任(5)


これが戦争責任の話の参考になるのかどうなのか・・・
でも、わたしには参考になったので、恥を忍んで書きます。

わたしの両親は60歳近くで離婚しました。
理由は色々ありますが、父親のうつ病です。関連して酒乱とDVとか
その筋ではよくある話です。
母親が東京に逃げてきたのはわたしが20代の後半でした。
父親は復縁を求めて、霞ヶ関の裁判所に二回、地元で一回、調停にかけた。
いやまったく、参ったものです。
結果?不調停に決まってるじゃないですか。
双方が正義を主張する。対する調停委員なんて屁のようなものです。

離婚届が速達で来ましてね。母の本音は離婚するつもりはなかたのですが、
わたしが説得させて判子を押させて、送り返させた、速達で。
で、思い通りにならないのはわたしのせいとなって、わたしに集中砲火。
30代から40代の20年間、罵倒と懇願と脅迫の繰り返しです。
父親が生きている頃、母もその恨みつらみを繰り言のようにわたしに語る。

馬の耳はタコです。

父親の望みは、母との復縁でしたが、そう簡単にはいかない。
当人以前の親戚たちの問題があった。
わたしの母は厄介者を捨てて逃げていった卑怯者となっていた。
この間のことはあまり人には話さない。話せない話です。

その父親も三年前に死去しました。

病院で、長い孤独と後悔の、そして唐突の死だった。死因は肺炎。

その一年前に、わたしと妹は両親を復縁させていた。
墓の問題もあり、また母に父親の遺族年金をもらえるようにするためです。
その頃はもう父は惚けてしまっていて、20年ぶりに(感動の)再会させても
認知できなかったというなんとも間抜けな話です。

葬儀は、わたしと妹と母親の三人だけ。

どちらの親戚筋にも教えなかった。父方の親戚筋は復縁のことを知らせていません。
そのことで、本家の叔母から大クレームを受けます。
「人としての道」を説かれた。
わたしは平気です。わたしは強い。わたしは強いのです。
そんなことはどうでもいいのです。これはわたしたち家族の問題です。

母の父に対する態度が変わったのは、父の死からでした。

母の想い出は語りの父は
真面目で、ハンサムで、可哀想で、優しい夫であり、父です。

わたしたち家族は決して世間に自慢できるものではありません。
母は善意の我が儘な81歳の小悪魔です。
(小悪魔の)姑と(魔女の)嫁の間もしっくりといかない。
その間で戸惑うダメなわたし。
気の良い妹ですが、更年期障害のせいか、母の暴走にブチギレまして(汗)
昨日今日大変でした(涙)。

さて、わたしたち家族は今から黒部に家族旅行に出発します。

田舎から、母が父の遺影をもって上京しています。
Kちゃんが初めてみる祖父の顔。
昨日、妹の家からわたしの家に母を連れて来るときに、
「なあ、父ちゃんも連れっ行ごや」というと
母は賛成した。ザッツアグッドアイデアだそうです(笑)

恨みとか、憎しみとか、決して許せないものはある。
いまだにそれを言い募る人もいる。
「それを俺にいわれてもどうするもこともできないじゃないか」
と憤ることもあります。

でもさ、それぞれに言い分はあるけれども
水に流せる、赦せることはあるのだなあ。
日本人にはそういうところがある。(わたしの母でも!)
それは日本人だけじゃない。

それを過剰に過小に考えなくても言わなくてもいいよ。
過敏もよくないけれど、無関心もよくない。
もう、揉め事はウンザリなんだ。


一家離散となった恥ずかしい家族ですが
これより、母と妹と、わたしと、妻とKちゃんと、そして父と
6人で旅行に行ってきます。

一泊二日で黒部かあ・・・強行軍だなあ・・・
仕方ない、25日からKちゃんの学校が始まる。
文部科学省よ、夏休みは31日まで休ませろよ!

てな、わけで行ってきま〜す(笑)