あかんたれブルース

継続はチカラかな

民という存在

しきちゃんへの伝言(7)


国をまとめていくのって難しい。

日本人は島国で単一民族(と考えられているから)ということもあって
ピンときていないようですが、どこの国でも難しい。
日本人は水はタダで手に入るという考えがありますが、
それはとても恵まれた環境であるということと、思い違いなのかもしれない。

この問題は古くから、中国や朝鮮半島にある重要課題です。

それをまとめる方法として、民族や宗教やイデオロギーが用いられますが
それが逆に争いのタネになる皮肉な現象がいまだに続いている。
専制君主制や独裁は「悪」だと考えられていますが、
これもシステムとしての国をまとめる手立てです。
いえ、それを肯定するというものではありませんよ。難しさの話だ。

近現代史というのは世界の民主化の歴史でもある。
これはある意味の人類の進化論であり、宿命的なベクトルだと思う。
問題は、それではたして国家がまとまるかどうかです。

日本は鎖国時代を経て、急激な変化を余儀なくされました。
幕末から明治維新の原動力は
国体の在り方に対する「尊皇」と外圧に対する「攘夷」
運動をエネルギーとした。

それまでの武家社会(源平北条、足利、徳川)は天皇の権威を
簒奪した施政者であるという「正論」がスローガンとなって
革命に火をつけたのでした。
これは、徳川時代の泰平から暇を持て余した日本人が
カルチャーに没頭した結果でもある。民度の向上といえます。

だからよく、「明治以前は天皇にさほどの影響力はなかった」
という考えはすこし的はずれなのです。

維新後、岩倉具視などは天皇中心の国家を求めた。対して、
大隈重信などはそれに大きく反発し、急進派として対立しました。
ここで、伊藤博文は岩倉の考えに現実性を感じない。
しかし、大隈の考えも性急過ぎて実行不可能と考え、行動する。

まず、大隈を排除して、岩倉を牽制する。
そして、議会政治へと牽引していきます。じっくりとね。
これが、伊藤博文の理想家的現実主義者たるところです。
この伊藤が考案した「万世一系」の定義というのが興味深いと思わない?

つまり、日本は民族や宗教や思想ではなく
天皇という存在で、国を束ねようとしたことです。

しかし、最初に伊藤が危惧したように
だからといってすべての権限を天皇に集約させるのは非現実的です。
国家のスケールが大きくなっているので、
原始天皇(制)のようなわけにはいきません。
ここで、バランスをとらなければいけない。それが、
統帥権とか天皇機関説といった存在となるのですが・・・

明治以降、日本には様々な問題や矛盾がある。
それを性急に解決しようとする次世代日本人(明治以降生まれ)が
ついついイラチになって暴走しだすのです。

野球でいえば、一発ホームランばかり狙う。それも満塁。
ランナーがいるかどうかもわからないけれど、とにかく大振りです。
結局、死球にも手を出して撃沈したという一人相撲になってしまった。

わたしの(リアル世界)周囲にも天皇(制)に批判的な人は多いです。
別にそういう人たちと付き合っているわけじゃない。
人付き合いの幅が広いだけです。
ただ、これまで、わたしはそういったことに意見をはさまなかった。

わたし自身が昭和34年生まれで、現皇太子と同学年の人間です。
早生まれの同級生には現皇太子と誕生日が同じと自慢していた奴もいたっけね。
だから、とても奇妙な感じなのでした。
いつか、同級生だったような「人間」が天皇陛下になる。
その人と同じ時代の同じ時間軸で生きていることが不思議だった。
それぐらいの感慨しかわかない者でした。

わたしが、それを意識しだしたのは、
しきちゃんたちの天皇パッシングにも原因はありますが、それよりも
「国体」という存在を考え出したからでしょうね。

民主主義とは非常に非効率なシステムであり、
費用もかかれば、時間もかかる、ましてや数の論理ですから
矛盾もあるものです。
同時にそこには「自由」という甘美な誘惑の囁きもある。

結果、収集がつかなくなっている。

民衆をあなどってはいけない。

マジでやばいのやばい存在の正体は
マスコミでも闇の権力でもない。民衆という存在だ。