あかんたれブルース

継続はチカラかな

死の誘惑

日本人の愛と死と性と生(1)


日本人は戦後大きく変容しました。
自由を得たようで、ある意味でそれを履き違え、
またその自由に翻弄させられ疲弊と閉塞を余儀なくされている。
GHQに巻かれたネジが壊れてひとり歩きをしている。暴走?
彼らも苦笑している。

とは別に、
戦前からの保守的な固定観念の呪縛そのままのようです。
血胤と家の混同もそれです。
そして、愛と死と性と生の捉え方にもそれはいえる。

その現在の認識、価値観は、本当に正しいのか?
このへんをもういっぺんチェックしてみても損はない。

生死観については
生きることばかりに光をあてて
死を考え語ることをタブー視してきたと思う。
私たちはもうヘトヘトなのに生きることの重要性ばかりを説かれて
辟易している。

古の砂漠の民は虚無を怖れた。それは時間の流れのなかにあり停止にある。
それを怖れるあまりに唯一神という絶対的な神を創造した。
その地を逃れた一族は遙か東方のオアシスに国を造りました。
この地には四季があり自然が溢れ変化にとんでいる。
時間の流れに停止を感じることなく、
虚無感を受け容れられた。

これが日本人です。

日本人はその変化に「もののあわれ」というエロティズムを感じます。
桜や新緑、紅葉や落ち葉、新しい命の誕生から老い朽ち果てていくもののあわれ
循環していく摂理に虚無を受け容れることができる。

それでも、死は恐ろしい。
一神教徒よりもそれは過敏であるかもしれない。
日本人は死を恐れる。いや、自然を、この世のすべてを恐れる民族です。
だからこそ、
死に価値があります。

キリスト教は自殺を禁止しますが、
武士は切腹を誇りとして、庶民はどこか心中に憧れを抱く。
誠に変な民族性が生まれました。

武士道とは死ぬことにあり! 葉隠れです。

つまりはここに究極のエロティシズムをみいだした。わけだ。

で、時は移り文明開花から明治大正、昭和となっても
日本の恥の文化に「死を恐れる」という強烈なプレッシャーが伴います。

そこには当然、徒花がある。
なにか不都合なことがあると、すぐ死で解決させようとする。
代表的な人物が乃木希典でしたが、
これが定番化して「貴様死ぬのが恐いのか」が殺し文句になってしまう。
「恐れ多くも天皇陛下の」と同じくらい効果絶大で
作戦立案でも積極策のほうが強くなっていく。

声のデカい方が、景気の良い意見が強くなっていきます。
結局、良識派は押されていってしまったわけです。
「どうせ死ぬし、いいやあ」とどこか投げやりな滅びの美学。

特攻はその効果ではなく死ぬことに意義がある。という
不合理な理論もこうやって一人歩きをしたんですね。

戦争の極限状態では人間は死にたくなるものだといいます。
これは万国共通なのか日本人だけなんでしょうかね?
だから指揮官は部下を死なせないように注意をしなければいけない。
これは日露戦争までは常識でしたが、戦後変わっていきます。
また、
指揮官は敵を殺傷する命令よりも部下を死なせる命令を与える
ことの方が多く、そのために長く戦闘を経験する指揮官は
精神を病むそうです。

戦争は人間を狂わせる。

狂う。ここにエロティシズムあります。

人間は死にたがっている。

問題は、誰のために死ぬか、だ。
本当に本音で、天皇陛下のために死ねたのか?
ここが非常に怪しい。