あかんたれブルース

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生死観と性愛観(8)


美しく生きる。気持ちよく生きるを記事にしました。
もっと下世話にいうと、格好良く生きる。ですかね

人間の欲望には「認められたい」というものがある。
自分を、自分に、他人に

戦国歴史物などでよく耳にするのは
「命を惜しむな名を惜しめ」というのがある。
虎は死して革を残すが、人間はその名を残すってやつです。
代表選手は大阪の陣で散った真田幸村ですかね。
義父の大谷吉継だって関ヶ原の戦いでその名を不動にしました。
判官贔屓というのも日本人の特性です。
でも、これなんてラッキーケースだと思う。

太平洋戦争でA級戦犯として裁かれた者達は十把一絡(じゅっぱひとからげ)で
いまだに大罪人でその存在・扱いから厄介者とされている。
わたしはそれを一人一人弁護していこうとは思わないけれど
戦争犯罪をこういった一部の人間にひっ被せて
それを糾弾することで、自分たちの責任を免れようとする
マスコミや有識者や国民はイヤですねえ。

戦後の悪人といえば岸信介が代表選手です。
昭和の妖怪。でもさ、彼が東條を抱き込んで心中した魂胆は認めるべきだし、
彼の統制経済も戦後復興の重要な要因となったわけです。
笹川良一もわたしは現在世間一般でいうほど嫌いじゃないです。はい
人間をそう簡単に白黒区分けできませんよ。

嶋田繁太郎(元海軍大臣)なんていうのは許せませんけどね。
こういう恥知らずが生き残ったところに日本人モラル低下があると思う。
汚名をきて処罰処刑された者達よりもこういう恥知らずを糾弾してほしいです。

美しく生きるとは、その人の美学です。
どんなものにも長短とか貫目みたいなものがある。出来不出来でしょうか。
その意味で乃木希典の生死観の美学はとんだ大間抜けだと思う。
たとえ利用されたとしても、日本の戦争責任の根本を問うなら
このあたりから的を絞ったほうがいいと思いますけどね。

楽しく生きるも、即をれを享楽と捉える人もいるでしょうが
考えが浅いのだと思う。こういった傾向が多いです。

古いギャング映画に『汚れた顔の天使』というのがあります。
主演はジェームズ・ギャグニー。
主人公のギャングスターが死刑執行の直前に彼に憧れる若者たちを思い
無様な最期を演じるというものでした。
このラストシーンがとても印象的だった・・・

作り物、ハリウッド映画の与太話だと思うなかれ
歴史のなかにこういった名もなき勇者もある。
問題は、そういうことがはたして自分はできるだろうかという事だ。
(この映画の主人公が犯罪者じゃなかったら違った展開になっていたでしょうが)

命を惜しまず名を惜しむことさえハードルが高いといのに・・・

でもさ

人間の欲望には「認められたい」というものがある。
自分を、自分に、他人に

すくなくとも、それをやる人間には自分に対してのプライドがあるよね。
だから上記の「自分を、自分に」はクリアできたわけです。
まず、それが得られたいいんじゃないかな。
自分のことを嫌い。認められない。こんな不幸なことはない。
要は幸せの話であって、それはとても個人的なものです。
自ずとそこには個々のプライドや価値観の次元の問題が出てきます。

さて、そこでもうひとつ「他人に」つまり他者にというのがある。
誰に認められたいのか?
みんなに認められたいの。それはそれで結構なことですが
たぶんそれは物理的に無理があって、そのイメージは漠然として甘い。
現実味を感じない。

誰に認められたいのか?

自分を知る者、信じてくれる者、愛する者ではないだろうか。

それだけで充分幸せなのだと思う。
そのためには、そういう者がいなければいけない。

愛というものは信じるということだと思います。
どういうものがあることが
楽しくて、嬉しくて、幸せなんだと思う。違うだろうか