あかんたれブルース

継続はチカラかな

無法松の愛



JJ. 自由人の
「魔法のメガネ」
http://blogs.yahoo.co.jp/basicincome01/9711640.html
「男の友情」
http://blogs.yahoo.co.jp/basicincome01/9716321.html
に触発されている。

わたしは愛情と友情を混同さて考えます。
愛をそういうふうに捉えている。
長い考察のなかでだしたこの結論には自信をもっている。

日本人は愛というものを誤解していると思う。
うまく咀嚼できないままに今日に至ったといっていい。

日本人がはじめて愛というものの存在を具体的に突き付けられたの
明治に入ってから西周などの明六社のメンバーによって
「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」などの言葉と共に誕生してからだ。

それまで、日本人に愛がなかったとはいわないけれど
そういった概念は持ち得なかったのだと思います。

それは、岩下俊作の『富島松五郎伝』(1939年)によって明かされる、はずだった。
この作品は翌年に「オール讀物」(文藝春秋)に掲載され人気を博し
芝居や映画になりました。
無法松の一生』がそれです。

無法松の一生』は日本人に愛を訴える作品です。
ところが、大衆はその愛がわからない。
そこで、無法松の愛を亡き恩師の未亡人への恋慕としてすり替えた。

ほんとはね、そんなこと原作にはひとことも書いてなかったんです。
でも、そのほうがわかりやすいだとういう理由で
無法松の愛は陸軍大尉・吉岡未亡人への恋慕となり、
忘れ形見の敏雄との愛情も越えてしまった。

無法松の愛とはさびしさにあったことを確認する必要がある。
小倉生まれで玄海育ち の荒くれ者の無法松
彼は日本の近代化のなかで取り残されていきます。
いや、時間が、年齢を重ねた、ということでしょうか。
若い頃の仲間は堅気になって工場に通うようになって、所帯を持ち家族を持った。

人力車を引く無法松だけが昔のままなのです。

そんな無法松に身分の隔たりもなく接してくれた吉岡大尉に無法松は愛を感じたのだ。
そして吉岡が死んだ後、その家族を庇護しようとする。ここにも愛がある。
美しい未亡人にまったく恋慕の情がなかったとはいわないけれど
もっと大きなものが無法松を動かしたと思う。

何度も映画化され、何度も新国劇で上演された
無法松の一生』が名作であることは間違いない。
村田英雄の「無法松の一生〜度胸千両入り〜」はわたしの鼻歌スタンダードだ。

  小倉生まれで 玄海育ち 口も荒いが 気も荒い
  無法一代 涙を捨てて 度胸千両で 生きる身の
  男一代 無法松

けれども、この作品によって愛は恋愛に特化してしまう。
家族愛は認められるとしてもどこか雛壇に置かれ
郷土愛とかは鼻で笑われ、愛国は後ろ指を指される
愛は地球を救うは日テレが独り占め。

  泣くな嘆くな 男じゃないか どうせ実らぬ 恋じゃもの
  愚痴や未練は 玄海灘に 捨てて太鼓の 乱れ打ち
  夢も通えよ 女男波

違う、違うんだ、無法松がさびしがったのは、泣いたのは
実らぬ色恋で愚痴たり未練がましく太鼓をたたいたのではないんだ。

ということ、言いたい。
愛情も友情も同じだ。みんな同じ。それを分けて考えるから不自由になる。
そんなことをいつも考えています。
今朝、JJ.の記事を読んで無法松を思いだしました。
人間っていうものは、こういうふうに優しくてさびしいものだと思う。
だらかこそ、やさしいのだよね。

好きにすればいいさ、それが嬉しくて楽しくて気持ち良いことなんだから。
鯱張ってどうこうせにゃならんとかいうんじゃなくて
そういった日本人の原点に立ち戻って、思いのままに生きる。
それを忠恕といいます。
己に忠実に生きるということです。それが
嬉しくて楽しくて気持ち良いことなんだから。いいじゃん

人生は邂逅にありというけれど
こういったものたちと出合えたことを誇りに思います。
とても幸せです。



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