あかんたれブルース

継続はチカラかな

次は、悩んでみる。

生死観と性愛観(14)


生死観と性愛観と題して連作記事にしています。
これは愛の考察のための作業という事と同時に、私達の歴史(人物)観にも
大きな影響があると思うのです。

豊臣秀吉がスケベ大魔王だった。というぐらいならお笑いで済みます。

けれども、今太閤といわれた伊藤博文が(女道楽の)病気となると眉をしかめる。
千円札のお札に採用されるときもこれが理由で反対されたくらいです。
人間性を疑われてしまう。

歴史考察は無論、現在との比較が面白い。
「俺にこんな行動ができるだろうか・・・」とかね。
ただ、時代環境や価値観が違うので、そこに罠もある。

日本人に一番人気のある戦国武将は大谷吉継といわれています。
ライ病を患い白覆面で戸板に担がれて関ヶ原で戦った大名。観たことない?
負けるとわかっている戦だと親友の石田三成を止めるのですが、
それを聞き入れない三成。その友情から敢えて関ヶ原では西軍として戦う。
「死や、死や」の台詞は司馬遼太郎の傑作『関ヶ原』で泣かされる。

号泣だぞ!

でもさ、たとえ小大名でも一国一城の主で家臣一族郎党はどうなる・・・
その友情は美しい。けれども、「それは個人的なものであって、」となる。

このモヤモヤの原因に生死観の違いが、ある。

また、池波正太郎の得意ジャンルは真田物と忠臣蔵ですが、
その忠臣蔵を扱った作品で、大石内蔵助が討ち入りの前に息子に性道の真髄を教える。
父親も夜のホームラン王なのですが、なんとこの父は大リーグボール養成ギブスではなく
「かげま茶屋」という男色専門店に息子を導きその真髄に耽けさせてしまう。

すごい父性だ!

男色についても、戦国大名は信玄、謙信、信長、家康・・・みんな同性愛愛好家。
例外は前記したスケベ大魔王の秀吉だけ。

どっちがノーマルなんだ!

JJ. がホモるという性癖に悩んでいたが、
つ〜たんが己の変態性に悩んでいたが、大丈夫マイフレンド。
春風さん、和田アキコに欲情しても変じゃない。

ノーマルとアブノーマルの境も時代時代によってわからないものです。
寅屋が看護婦にこだわるのは単なるスケベということで、ここでは語りません(笑)。


さて、そこでやさ
そんなことどうでもいいと曖昧に過ごしてはいないか、君は。
よくはないよ。大問題なんだ。
明治以前に日本に愛が存在していたかどうか?
そして、現在私達が考える「愛」とは、ホントに「愛」なのか?

私達は坊主じゃないけれど、おおかただいたいの日本人は仏教徒です。
仏教の世界では「渇愛」といって愛さえも煩悩として、しかも最大級の煩悩として
否定されるのなのですよ。

それでも、愛がすべて、愛で地球が救える、と言えるのか。

と、なるじゃん。

で、夜這いの話だ。
祭の夜、夫婦はそれぞれ別々に出かけて一晩違う相手とハッスルし、
何事もなかったように、翌日はシレーッとしてる。また
村のお寺では乱交パーティーが開催されいる。
そんなに広くはない家で、年頃の娘が夜這いされて
親は隣の部屋で黙認。

そういうのを民度の低さとか、文明開化以前の野蛮だけで納得できる?
同じ日本人なのに・・・

因み、今東光の『河内風土記』をみると
昭和三十年まで大阪近郊ではそういった倫理観で大丈夫でした。
50年前ですよ、たった50年前まで(汗)。

そのくせ、今の日本人は非常に倫理観に喧しい。
たとえ、出逢い系サイトや不倫や若年層の売春云々はあるとしても
建て前的なのかどうなのか非常に固い。なぜだ?

いつから日本人は変わったんだろう?

そして、愛はホントに存在するのだろうか?
愛って、なに?