あかんたれブルース

継続はチカラかな

それでも、泣いた。

生死観と性愛観(16)


坂の上の雲』第二部、第二回で子規が死んだ。
この件(くだり)、原作では非常に味わい深く描かれています。
子規の母と妹、弟子の高浜虚子河東碧梧桐、そして陸羯南・・・
密やかにそして温かく、子規の死に寄り添う人々

若い頃、読んだときはさしたる感慨もなかったけれど
四十を越えて再読したときには、泣かされた。
なんといっても、陸羯南の愛だ。

残念なことに、ドラマではその部分はなかったけれど、
妹・律の「兄さん、誰にいじめられたん」の台詞には
思わず、嗚咽してしまった。


執着について考えてみる。

子規は生きることに執着した。
しかし、彼の生は過酷である。それでも生きることに執着したのだ。
それは無様な姿なのだろうか。
ナレーションでは司馬さんの言葉から
明治という時代背景と重ねてオプティミズム「楽観主義」と言い切ったが、
だとすれば、楽観主義とは、私達の観念を超えている。

わたしは、執着というものを以前は誤解していたと思う。
その以前と以後の間だに、この坂の上の雲で描かれた子規の生き様がある。

司馬遼太郎は子規の人間性を、「人に対する執着」と記した。

凄いな、と舌を巻きました。
そのように生きた正岡子規にも、そう言い切った作家にも。


人間は死期を提示されると生き方が変わるのでしょうか?
たぶん、ここにも個人差があるだろう。
司馬さんのなんて作品だったが忘れましたが(『風神の門』だったか『関ヶ原』か)
結核に陥った登場人物が、異常な性欲を持つ件があった。
そのことから、
生死に性が介在している。のヒントとなったと思います。

性とは「小」(りっしんべん)に生きる。
それは心の働きを現すとKちゃんの小学校の付録に載っていた。
生きる心の動き。

私達は「性」を誤解している。
それは、生きるうえでの心の動きだ。
子規は人に執着したのだ。

執着自体が問題なんじゃない。
問題は中身だ。

何に執着するか、こだわるか