あかんたれブルース

継続はチカラかな

変身したる。

生死観と性愛観(22)


愛と性を分別するかごっちゃにするか?

これまで曖昧にしてきたツケが溜まりに貯まって雪だるま。
年利8%なので10年で倍、明治から数えてどんぐらいだろう?
国の借金どころの騒ぎじゃありません。

ここは暴論の愛の研究室なのでごっちゃにします。

なんだ君は、不服なのか?

「そんなことしても意味ないと思います」

なぜ意味ないなんて言い切れる。

「だって愛は愛です。それ以上でもそれ以下でもない」

また、すました顔してどっかから最もらしい御託をもってきて
綺麗事でお茶を濁すつもりか。

「違う! 愛は崇高なものなのです」

では、性は崇高ではないというつもりか?

「そ、それは・・・人によってそれぞれ・・・」

では、これはどうかな?

「キャー!」

ちょ、ちょっとお(汗)
参ったなあ(涙)
どうも信用がないようです。逃げちゃった(笑)

愛は素晴らしい。汝隣人を愛せと申します。
たぶん、この愛は、あの愛とは違う。というのでしょうね。
つまり愛をJR東海とすれば、新幹線もあれば京浜東北線もあるし
山手線、中央線、総武線常磐線もある。
五木寛之松坂慶子に歌わせた「愛の水中花」では

♪ これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛

なんか後半にいくほど頼りなくなってしまう。

  だって淋しいものよ 泣けないなんて
   そっと涙でほほを 濡らしてみたいわ
    ひとりぼっちの部屋の ベッドの上で
     ちょっとブルーな恋の 夢を見ている
      乾いたこの花に 水をあたえてください
       金色のレモンひとつ 胸にしぼってください
        わたしは愛の 水中花

まったく意味のない歌詞だ。なにをいわんとするのかさっぱりわからん?
五木先生も人生を説く前にこの歌詞をなんとかしてほしいものだ。
つまり五木寛之でさえもパハップスなのだ。
えっ? 昭和54年の歌でかれこれ30年以上前の話だって?
そんなこたあ関係ありません。五木先生も歳を重ねて達観された?
そんなアホな。年取ったって耄碌するだけですよ。
そういうことは年齢に関係ない。
本気で考えるかどうかの姿勢の問題です。

とかくこの問題はインテリさんには鬼門なのかもしれません。

たとえば、寅さんシリーズの山田洋次監督も東大出身のインテリですが
性に対しては逃げ回っておりました。
おかげで寅さんは全49作中すべてストイックなテキ屋やくざを演じます。
ふられ続けたわけでもない。
シリーズ中、相思相愛の仲になるリリーとは結ばれてもおかしくない。
そんなシチュエーションだったのに、それは許されない。
濡れ場を撮れとはいわないけれど、絶対に越えてならない柴又慕情。
それで納得する観客もあれば、臍を噛む観客もいたはずだ。
それを松竹の営業方針とばかりは言い切れない。
ここに日本人の愛のタブーがある。

それでも山田洋次は『幸せの黄色いハンカチ』(1977年)で
高倉健倍賞千恵子をベッドインさせました。
事を終えて、健さんは倍賞のよがり声の大きさに驚いていた。
それを目撃した若き馬太郎は・・・違和感があったなあ。

どうも呪縛に苛まれている。

深作欽二だったらもっと上手く撮ったのだろうか?

渥美清高倉健、倍賞美智子・・・難しいよね。
オードリー・ヘプバーンでも難しい。
そのくせ文芸作品じゃバコンバコンですな(汗)。
そういう意味では性は崇高にうたいあげられる。
わたしも路線変更しようかな。

よし、変えよう!

ということで、明日から変身します。

つづく