あかんたれブルース

継続はチカラかな

「家族のため」という台詞

生死観と性愛観(自己愛について)


昨日のハル姉さんのコメントで自己愛についてありました。

>私の友人は「他人を傷つけても自分や自分の家族を守りたいもの
>(慈愛・人類愛は別もので、恋人・夫への愛や家族愛や自己愛という限定でした)」が
>そのお金より大切な愛でしたが、私はそんなものが大切とは思えない。
>馬太郎さんも、自己愛は「大切な愛」のひとつでしたよね。


わたしの考えは
自己愛は「大切な愛」のひとつ、というよりも
無償の愛と対(セット)になったもの。です。
自己愛と無償の愛はニュアンス的に相反するもののように考えられてしまうので
ここに矛盾や混乱を生じさせてしまうのだとも思います。


上記のハル姉さんの友人のコメントで
吉幾三の作業服のCMソング「ワークマン」を思い浮かべた。
♪ひろがる未来に夢が溢れてる家族を思えば頑張れるはずさ
というのです。

「家族のため」

この言葉はよく使われる。
自由や平等や博愛や民主主義同様に、原則論的な天下御免の印籠だ。
それを否定なんぞしたら眉をひそめられ後ろ指をケツに指されそう。

家族といえば聞こえもいいですが、要は最小の共同体であり
そのなかにも自分も入っています。
もっといえば、自分が生きるために他人を犠牲にする。ことでもある。
拡大すれば自国の国益のために他国を攻めるともなります。

こういうのは否定しきれない。

キリスト教系の逸話で、
遭難した人が他人のためにボートだったか浮き輪だったかを
譲れるかどうか、という意地悪な問答がありましたが
それを美談とするか、はたまた無責任とするかは悩ましい。

戦時中の「ひかりごけ事件」というのがあって
遭難した極限状態で人肉を喰うというものです。後に小説にもなった。
また、『ゆきゆきて、神軍』という超インパクトの強いドキュメンタリー映画もあった。
これは南方戦線で日本兵が敵兵の人肉を喰った事実を扱ったものです。
70年代には南米で不時着した旅客機の生存者が・・・という映画もあった。

それもまた生きるためです。


そこまでして生きなければならないものなのか?
実際にそういった場面に直面したとき、どういう精神状態になるものか、
わたしは想像がつかない。
毎年3万人を越える自殺者をだす日本で、同じ現象が起きるのか
想像するだけで辟易してしまいます。


人間を不自由にさせているのは、生きるための「しがらみ」だとした。
そのためにはどうしても優劣や強弱や競争原理が働くものです。
わたしは、それを否定しろとは考えない。
むしろ宗教とかで、それを否定しようとするアプローチに鼻を鳴らします。

アクションシーンで敵に包囲されて全滅の絶体絶命のピンチに
「ここは俺が引き受けた、お前達は先に行け」というのがある。
わたしは小さい頃からその台詞とそのキャラに憧れたものです(恥っ)

はたして、俺にできるか・・・

そんな妄想とは別に、端からどこぞの市民団体の方が
「無責任じゃないか!」と声をあらげる。
「家族はどうなる。残された妻子は路頭に迷うんですよ」となる。

う〜ん、そりゃそうだけどさ・・・そういうことじゃなくて(汗)

ここに自己愛の分水嶺があるような気がします。


近代以前には、愛はなかった。という暴論の仮説を提示しました。
愛には豊かさが関係している。
それは物質的なものと同時に精神的なものです。
民度といってもいい。
黒澤明の『赤ひげ』で、すべての不幸は「貧困と無知」だと言い切った。
それはある意味で正しいと思う。

春秋戦国時代の中国では飢饉になると他人の子供と自分の子供を交換して
食べたそうです。一応、自分の子供は食えない。倫理観があったのですね。
南方の「呉」では初めて生まれた子は親戚一同で食べてたそうです。(とほほ)
現在でも発展途上で政情不安のアフリカあたりではたくさんの子供が死んでいる。
両親は健在です。親は食って生きている。子供達にはまわらない。
親>子という過酷な優先順位がそこにある。
親ガメこけたらみなこける。それを誰が批判できるのか?

ソフィーの選択』で二人の子供のどちらかを生かすか死なすか
悩んだあげくに小さい娘のほうを手放す可哀想な母親。
そこにも優先順位がありました。


それでも、自己愛というのは
わたしがいう自己愛というものは、そういうものじゃなくて
無償の愛とセットになっているものです。
別に死んでもいい。わたしたち日本人にはキリスト教のしがらみはありません。

三人会議のJJ. や春風さんはその領域に近づいているのだと思う。
否定ではなく、肯定からのアプローチを開始させている。
不思議なことに、出会った時点でそういう発想は芽生えていたようです。
まだ荒削りで確信までには行き着いていませんが、偉いもんだなあと関心します。

どこかまだストイックな彼らですが
矛盾だらけの議長馬太郎は「欲を否定しない」と囁きます。
そういった手近の小さな欲じゃなくて、もっと大きな欲をもとう。
限定したり、条件を付随させたりしなくても
それですべての矛盾は解決できるのだと思う。
そして、そこに、自己愛の本質があります。