あかんたれブルース

継続はチカラかな

『手と声の輪』第4回2部〜テーマ「虐待(or体罰)」

教育を大テーマとして、
「いじめ」から「虐待(体罰)」「学校教育(ゆとり教育)」「育児・しつけ」などをテーマにします。


今回は難しい「お題」だ。
昨夜ハルジオンさんの所をのぞいたらOG.が上手いコメントを入れていた。

すべては、「自信の無さ」が原因していると。

その通りだと思う。

まったく違う会社(タイプが違うって意味ね)の女がいる。
共通してダメ男に引っかかってしまう。
これほどの器量だったらそんなババ引かなくてもと思うのだけれども。

ババというのは、このダメ男たちがDVやるからだ。
その件について、彼女たちも
「自信がないから力で抑えつけようとするんじゃないの」と
ふり返っている。もう過去の話ですけどね。

わたしはこういうのを「強烈なる母性」と呼んでいます。
それは、「危険な匂いのする男が好き」とか、
「愛情を得られなかった人のトラウマ」とかじゃなくて、
人間にそなわった健全な欲求本能なのだと考えます。
だから変な心理医療マニュアルの因果応報説を否定している。

自信っていうのは、年収とか肩書きとか実績とか容姿とか・・・
で交換できるものじゃない。
そこを勘違いしてはいけませんよ。

自信とは・・・自分を信じられるか、どうか。

自分を信じられない者が他人を信じられるわけないよね。
そういうわけです。
だから、自信というものを恐れ多いとか、
驕りと考えないほうがいい。

とは別に、自信の持ちづらい社会環境でもある。

先週末、鹿児島の実家に帰っていました。
帰る度に痛感させるのが、枯れていく我が故郷です。
駅通りに面する海岸沿いの周辺は、本来だったら市内のメイン居住地区
のはずですが閑散として空き地に駐車場ばかりが目立つ。
伝統的な地場産業である鰹節製造場がまったく冴えないようです。
法要のあと、母親と一緒にお寺から帰るとき
向かいの製造場に積んである薪の束が目に入った。

私達が幼い頃は路地で野球をやるとき、
この薪を勝手に抜き取ってバットがわりにしたものです。
それを注意されたり叱られたことが、ない。
また、お腹が空くと、海岸に干してある雑魚の干物(出汁用?)を勝手に
抜いて食べたりしますがそれも御自由でした。
港に行って魚釣りをするときは停泊漁船に勝手に乗ってもいいのです。
船奴といわれる漁船員はとても気性が荒いのですがノープロブレムです。
そのエサには水揚げした鯵とかを「呉いやいな」と言えば
自由に持っていけたものでした。

そりゃ悪さをすれば怒られますよ。大人は恐い存在なのです。
でも、ある一線までなら大丈夫なんだな。
それを子供達も知っている。

「子は国の宝」そんなたいそうなものじゃない。

たぶん、この大人達には想像力と記憶力があって
自分たちがそういう風に育ってきたことを知っている。
というか自信があったんだと思った。
どこかに余裕というか懐の広さ深さがあったと思う。
保護者もそんなにうるさくなかった。

半世紀前のこの町には活気があったものです。
閑散とした漁港の町に子供たちの姿は見かけなかった。
これは全国どこでも同じでしょうね。

自信を持ちづらい社会環境。まず、これがある。けれども
社会だけのせいにしてもいられないよね。
また、昔の話をしても仕方ない。後戻りなどできないのですから。

いまの時代を表す言葉を探せば「不信」だと思う。

不信の時代。

政治も経済も人間関係もすべてこれだ。
なにかで一発で解決できるという生やさしいものじゃなないと思う。
政治(政策・システム)、景気・経済もろもろ
とにかく平行して再構築するしかありません。できることから。

あなたは、まず、なにができますか?


『手と声の輪』第4回2部〜テーマ「虐待(or体罰)」(1)
この記事は、『手と声の輪』
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)
企画として書いた記事です。