あかんたれブルース

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『手と声の輪』第4回2部〜テーマ「虐待(or体罰)」(3)
教育を大テーマとして、
「いじめ」から「虐待(体罰)」「学校教育(ゆとり教育)」「育児・しつけ」などをテーマにします。


春紫苑議長が敢えて虐待と体罰をリンクさせたのに
どうしても区分けしないと語れない馬太郎でした(汗)。

教育には学校、家庭、習い事の三つがあるとしました。

虐待に関しては「家庭」と限定させたい。
幼児虐待とする。

教育は義務教育が始まる前からスタートしたいる。
「教えて育む」だ。
歳をとったせいか、もともとの気性か、
テレビなどで虐待のニュースを知るたびに憤り、泣く。
いいじゃねえか、感情的になっても!

可哀想。理不尽。不条理・・・・

なんでこうなったのだろうか。
虐待は昔からあった。ともいわれる。そりゃそうでしょう。
しかし数と悪質は増大している。

それが昨日の記事にした「自信の無さ」が原因だと思う。
後は、社会環境とかですね。豊かさの徒花とも言えるでしょう。
継子イジメなんていう言葉がありました。
「折檻」なんていうのもあった。もう死語でしょうか?
でも現実現代社会には溢れている。
こういうのも「自信の無さ」が原因しているのだけれど、
本能とか性とか色々な言葉が過ぎります。
これも人格形成の途上の徒花なのでしょうか。

虐待する親から被害者である子供を引き離す。
ここも難しいですよね。どんな親でも子供にとっては親は親。
それが故に悲劇は絶望的な結果を生む。

まったく効力がないわけでもないけれど、法制やシステムだけじゃ無理だ。
抜本的、根本的に取り組むしかない。と思います。
そこで、まずは考えるのは
日本人は「近代化」を誤解していたとします。
つまり、
「産業化」と「近代化」をごっちゃにしている。
産業化というのは利便性の発展をいう。
電気ガスの普及とかトイレが水洗になるとか、
食品の安定した流通とか、インターネットの普及とか、まっ、道具というか
ハードの発展ってことです。
対して、
本来の近代化とはメンタル的なソフトの発展だな。
それを一口にいえば、
「私達の(心の)豊かさ」を追求するもの。「幸せ」のことだ。

だから、女性が家事に翻弄されていたのが
家電(産業化)によって解放されるのはいいのです。
そこで幸せになれば近代化に一歩近づけるわけなのですが、
そうじゃないとすると、今だ近代化は発展途上ということになる。

子供を生みづらい、育てづらいとなると
そこには近代化も誤りがあるというわけだ。
なんのための発展なのか、ということですよね。
だから、発展を拒絶するのではなく、正しく方向修正する必要がある。
だって、だれもこんな社会を求めたわけじゃない。
悪くしようなんて誰も思ってなんかいません。
そんな陰謀なんて存在はしない。

なんとく、もうすこしなんだと思うのです。
もうこれ以上追い込まれられない、限界にきているような。
でなければもっと追い込まれるだけ。
変われる人から変わっていく、そうすべき時機なのだと思う。
我慢では解決できない。
ただ、変わるだけ。
自分のせいにしたり、他人のせいにしたりして苛んでも解決しない。
自分から変わる。その場所、その位置、その価値観から
解放してあげる。それだけだ。


『手と声の輪』第4回2部〜テーマ「虐待(or体罰)」(3)
この記事は、『手と声の輪』
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)
企画として書いた記事です。