あかんたれブルース

継続はチカラかな

へこたちゃあかんで


『手と声の輪』のスタートさせるときに「理念」の提示を訴えました。
これがないと、イチゴのないイチゴ大福なのだ。
「伝える」こと、「表現」の難しさを痛感する馬太郎51歳です。

なんのためにやるのか?

記事を書くときに常にこれを噛みしめる。
今回、「虐待(or体罰)」の難しさは、その枠組み捉え方にあった。
「虐待」は文字面どおり額面通りなのでさほどのことはない。
それでも、それを受け取る側の個人差が存在します。(体罰はなおさら)
本来、個人差があってはいけないのだ。

「虐待はよくない」

それで切り捨ててしまってもいいと思う。しかしだ、
問題は、それではなくならないってことです。
それは「イジメ」も同じです。
で、どうするか?
中年から壮年あたりに位置する馬太郎は考えるわけだ。
一番効果的なアプローチはないものかと・・・

平和を訴える、戦争反対を叫ぶ
だけじゃ平和はこないし戦争はなくならない。
水前寺清子が歌ったように「幸せは歩いてこない、だあから歩いていくんだね」
という具合に表現手法にも工夫がいると思っているわけです。
これはあくまでもわたし個人の話ですよ。

戦争はなくならない。と大見得を切る連中がいる。
なぜ?と問えば、「歴史は繰り返される」とか「過去の歴史が物語る」という。
そこで、わたしは
「歴史は繰り返されない。それは錯覚でしかない。過去は過去。
 歴史とは時間の記録である。
 時間は螺旋を描いてある方向に進んでいる」と言い放ちます。
細かく実例もあげられますが、まず
これを否定できる人はいない。いたら馬鹿です。

理屈には理屈で。目には目をだな。(ここが物騒なんだな)

また、「理」では納得しないならば、「利」で説きましょう。
「戦争? そんなの損じゃないか!」
これも実例をもって立証できる。力で解決させよとしてもダメなのです。
これこそ歴史が立証している。

以前、「表現」というテーマだったかで
むっしゅから「言論の強者弱者」が提示された。
前記したわたしの手法はそういった強者を駆逐する「喧嘩論法」だと思う。
同時に、わたしも「強者」なんだろうと思います。

ここでさ、強者が悪で弱者が善とは限らない。
質の悪い弱者もいるものです。
同じ質の悪さでもそれが強者だともっと厄介。いや質の悪さなら強弱関係ないか?

とにかく、わたしは駆逐して潰していこうと思う。
これはあくまでもわたし個人の姿勢ですからね。みんなにああせいこうせいと
いうものではありません。ただ、「考えてみる」ということはみんなに訴えたい。
自分の頭で考えてみよう。
難しいことじゃない、中学生でもわかることだと。

わたし自身としては良識派のつもりで、左右に傾かない中道派を意識しています。
それでも、とくに「いい人」を目指してはいない。
だから、ときにドラスティックであろうが攻撃的な人と目されてもかまわない。
こういうのを自分では「役割分担」と考えている。
そういうのが自分の役割だと。
これは仕事とかプロジェクトとかで重要なのだ。
船頭ばっかり多くても船は前には進まない。
いい人ばかりでも同じで、誰かがそれぞれの役割を担ってこそ、踏み込める。

そりゃさ、「いい人」のほうがいいよ。
誰も傷つけないし、自分も汚れない傷つかない。
わたしにとって人格者なんて言葉は一生御縁がないだろうなあ。
でもさ、そういうことはどうでもいいのだ。
昔は、ときどきそういことでさびしさを感じたこともありました。
甘かったんだね(笑)でも今は違うなあ。

わたしを信頼してくれてる連中が結構いる。これがわたしの勇気となる。
馬太郎ってハンドルネーム。自分でも最初から変だと思ってましたよ(汗)。
肩に力が入らない感じでなんとなく付けたのですが
5年近くこの名でやってすっかり人格が込められてしまった。
今では本名を凌駕してるよね(涙)。

有難いことだと思う。
マジで「人は生かされている」と思うのだ。
JJ. がよく自嘲気味に「俺は若い頃バカで半端者で獣でした」という。
「いや、君は今でも充分そうだよ」とからかうのですが(笑)。
自分自身もそうだったしそうなので、よくわかります。

わたしはよく近現代史の人物を取り上げるのですが
彼らも同じだと思う。そのなかで彼らを眩しく感じるのは
信頼し信頼されていたからだと思う。
すべてはこれが源となっている。

人間が歴史を作るというよりも、歴史が人間を作る。
人が人を作る。

人間に知性というものがあれば、同時に臆病がついてまわります。
保身といってもかまわない。
それを仕方ないとする人は多いものですが、ここに信頼というものがあると
勇気がわき上がってくるから不思議だよね。
知性と勇気が共存するのだ。
そこに「狂」があるんだと思います。愛でもいいけどさ。

若い世代の方々はピンとこないかもしれませんが
人ひとりの人生は短いものです。
有限なのだ。
でもさ、儚いだの無常だのと嘆くよりも
それを永遠にかえることができることに想いは馳せる。
それはバトンだ。
わたしから、JJ. 春風たちに、そしてkちゃんへ
それが受け継がれていけたらいいよね。

そんなふうに考えれば、自分のことなんかどこかで放っておけるものです。
それが己を空しくさせるということで、熱狂の「狂」である。
つまりは、自由ということなのだ。
それは、
嬉しくて、楽しくて、気持いい〜

なのだ。
だから全然、さびしくない。


『手と声の輪』第4回2部〜テーマ「虐待(or体罰)」(番外)
この記事は、『手と声の輪』
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)
企画として書いた記事です。