あかんたれブルース

継続はチカラかな

泉ピン子かマツコデラックスかではなく



サミュエル・ハンチントンが提示した(東西)文明の衝突
それは異質がゆえの現象なのだと思います。

西洋文明に対する批判は最近よくありますよね。
その最大の要因には一神教キリスト教)の影響にあると思う。
それは絶対の神を存在させることによって
この世の中を善と悪とかに二分して考える二元論二極論を生みだします。
これで(キリスト教が国教になってから)西洋の哲学者は悩んだ。

その点、日本は東洋にあっても独自の宗教観信仰心なもので
異質オブ異質なものだった。

明治に入ってからです。文明開化と共に、近代化と共に
そういった西洋合理主義を手放しで受け容れた。
でも、そうはいっても土壌が違いますから
その辺は曖昧なママ。
なんといっても下地にキリスト教がないわけですから。

で、この二者選択の白か黒かの発想が蔓延浸透したのは
1980年代からじゃないかと思う。
いわゆる、国際化とか規制緩和とかグローバルスタンダードとかが
叫ばれただした時代です。

と同時に、護送船団方式とか終身雇用や年功序列が否定されました。
この時に、「玉虫色」というのも言葉狩りにあった。
折衷案とか先送りっていうのは生き延びるのですが
感情的に「玉虫色」の言動は許されなかったのだな。

だったらもっとはっきり言ってよ! ってね。

そして21世紀にかわった途端、
「ショウ・ザ・フラッグ!」(旗幟鮮明にせよ)と
米国に詰め寄られるというわけでした。

明治から平成にかけてようやく日本も欧米的な文明開化が身にしみたわけです。
めでたしめでたし・・・

めでたくねえよ。

五十を過ぎると誕生日だってめでたくない。
先日、同級生の女性にバースデイメールを送信したけど返事がありません(涙)

こういったイエスノー、善悪、白か黒か、愛か金か、仕事か家庭か、カツ丼かカツカレーか
といった二元論二極論は矛盾をきたすものです。
それは欧米でも同じこと。
だから彼らはそんなときに「Oh! my God!!」を連発させるわけだ。
ところが、私達にそんな存在がありません。
お盆はからお彼岸までは「オーマイ親鸞様(宗派によって異なります)」
ローウィンからクリスマスまでは「オーマイサンタクロース(ジェイソン?)」
お正月は「オーマイ天照大神(お参りする神社によってことなります)」
なのでなんとなく頼りにならない。

もともと日本人は劣等感と優越感の振り子に揺れる民族だ。
それも明治維新からはじまったと思うのですが、
そこからの欧米に対する劣等感が日露戦争で優越感に大きく傾いて
ひっくり返って再び劣等感に逆戻りです。
これも近代化の二元論二極論ともいえる。

真ん中はないのか!

いずれにしても、この近代化というものが
西洋の産業革命から発したものである以上、その長所と同時に
不自由な短所があることに間違いはない。

昨日の記事で、わたしはそういったことをプロセスとして捉え
段階的なものと考えてみました。
いつまでも産業経済至上主義でもないと思う、からだ。
自由や民主主義にしても同じであり、そういった常識や価値観も変容する。

それにはこの二元論二極論の発想を一度反古にしてやる必要がある。
なにかよいテキストはないものかと考えるに・・・
投資理論・相場哲学なるものがあるゃないか!
これに関しては東西共通です。
こういった相場は「売り」と「買い」の二者選択なのですが、
「売るべし、買うべし、休むべし」という思想哲学鉄則がある。
これは日本だけじゃない。ウォール街の格言にも同様なものがあります。

つまり第三の選択もあるわけです。
「動かない。それも行動である」と昔先輩に教わったものだ。

焦りは禁物という常套句には、そこで判断を見誤るというのがあるからでしょう。
追いつめられたときに究極の選択をするのではなく、
そういうときにこそ「休む」「立ち止まる」「冷静に考える」という
第三の選択があることを忘れてはいけない。
これ意外に見過ごされている気がします。
また、白か黒かのほかにも、捲ってみればピンクの花柄があったり
イチゴの柄があったりするかもしれない。
究極の選択で一か八か勝負っていうのも善し悪しかと思うのでした。


確かに東西は衝突するかもしれないが、
その後必ず融合する。
19世紀はそういう時代でもあった。(馬太郎)