あかんたれブルース

継続はチカラかな

メディア王の悲願



ワトソンが来日したのは第五福龍丸事故の
前年にあたる1953年(昭和28年)だった。

当時米ソの冷戦から双方が核実験競争を繰り返し
米ソは双方の東西陣営に核の技術を二国間で共有する取り組みをしていた。
と同時に、米国のアイゼンハワー大統領は原子力の平和利用を訴えてもいた。
ソ連は米国の「二枚舌」をなじった。

日本人の核兵器に対する拒絶反応は激しい。その対策として
心理作戦が必要とされ、その一番の効果があるのは「新聞」と考えた。

ワトソンはそのなかで一番影響力のある人物として
読売新聞社主の正力松太郎に的を絞った。
「正力に会いたい」
意中の彼に接触するまえに、
その腹心である日本テレビ重役の柴田秀利と会合を重ねていたのだった。

柴田は驚くほど有能であり、深い人脈と行動力をもっていた。
この男は明らかに首相官邸と連絡を取り合っていた。
一介のテレビ局の重役ができるような提案ではなかったからだ。

米ソの核実験が盛んだった当時、
日本は放射線の研究では世界でトップレベルにあった。
その研究所を「日本放射性同位元素協会」という。
放射線の危険性を世界に訴えていたのだ。
設立は昭和26年である。
この団体の優秀な研究者たちがある時期をもって、一斉に粛正されたという。
それによって一転「放射線の有効利用」というスタンスに変身したのだ。
推測するに、
それは中曽根康弘による原子力開発の予算が成立した昭和29年だろう。
同協会はこの年の5月に社団法人に改組された。
すくなくとも、研究者や学界では
そうでないスタンスでは認められない烙印をおされ、排除されるようになった。
それは現在も続いている。

ほどなくワトソンは柴田を通じて正力と直接会う。

ワトソンから伝えられた米国の意向に正力の目が輝いた。

日本は原子力の平和利用に打ってつけの国である。
それは国内にエネルギー源がないからだ。

正力にとって日本の貧しさはエネルギーの脆弱さにあった。
この貧しさを打開しない限り、日本の戦後復興は叶わない。そう考えていた。
この貧困をなくさなければ日本は共産化してしまう。
東西冷戦下のなかで、
西側諸国にとっての共産勢力の侵食は放射能汚染以上に切実だったのだ。

昭和28年、正力は新たな事業を展開させていた。
テレビ事業である。

正力は東京都内に200台あまりの街頭テレビを設置した。
この頃のテレビの普及件数は3000台ぐらいの時期である。
まさに「創意の人」であり、大胆な勝負師である。

民衆はそのブラウン管に映る力道山の勇士に熱狂した。

そして、翌年の1955年(昭和30年)、
自らは富山二区から衆議院選に立候補し初当選する。
ただの新人議員ではない。
戦前の大物実力としてA級戦犯で拘束されていた巨人だ。
その公約は保守合同の政局安定と原子力平和利用を掲げていた。
当選後、正力は財界をまとめ上げて原子力平和利用懇談会を発足させ
自ら代表世話人に就任した。

そして、1958年(昭和33年)に初代科学技術庁長官に就任する。
このときに、手足となって働いたのが中曽根康弘だった。


馬太郎はまだ生まれていない。
まだか、馬太郎。
キャベツ畑でコウノトリと眠っています(汗)