あかんたれブルース

継続はチカラかな

一握りの勇気と感性と運



「若君も恋愛でもすればよいのですが」

傍らで三太夫がこぼしていた。
そのときは
「うむ、それはその通りで、それにこしたことはないが」
と思った中山馬之助だったが、
こうして血気にはやり出奔した若小路君麻呂のことを想うと
誠にそうであったなあと臍を噛む。

人間がめぐらせる理屈や理論などというものは
いかようにでも捏ね繰りまわせるもので
そのしだいでは空気が入ってガスがたまる。
屁理屈というものが生まれる。

古今東西の歴史のなかで理屈や思想などで
物事が解決したことなどはないのだ。
ただひとつ、それはその人間の姿勢にあって
節義にあって信義にあって言動に現れる。
それがすべてであり、それが人を動かし
世の中を動かし、歴史を動かす。

確かに大阪の陣は理不尽で非条理で負け戦のなかにある。
落城目前は十中八九確定の青ランプだろう。

血気にはやるというのは
それをすべて己一人で決しようとする性急さだ。
そこに我慢の足りないひ弱さと
己が強い稚拙がある。
これは誰しもにいえる人間共通の性癖でもり、
それをどう節するかに多くの時間と鍛錬が必要なのだ。

そのためには
己を空しくする。
ということが非常に重要な扉の鍵となる。
これが難しい。
正直者の三太夫は納得はするがいまひとつ解らないという。
それでいいと思うし、そう簡単にわかっても困る。
また、わかったからといって出来るものではない。

君麻呂はわかるとして
それを己の命とし捨て身とすり替えた。

それは蛮勇である。

しかし、どんな正論をもってしても
理屈や理論で人を説得することはできない。
「若君も恋愛でもすればよいのですが」
三太夫のいう通りだ。

己を空しくする。
それを肌身で感じられる機会がそこにある。
ちーちーぱっぱのあへあへのそれではなく
大阪しぐれで説かれるような
恋愛である。

己というものから開放する
その手立ては
理屈や苦行ではなく
狂い咲く健全な思い込みの恋愛のなかにある。
一握りの勇気と感性と運があれば
それは誰でも得られるものである。



司馬太郎『大阪しぐれ』(学級文庫)より