あかんたれブルース

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「他人の幸福を喜べる女性は美しい」


リリーからツッコミが入った。
『心から』を入れないとアカンと。
当然、この言葉には伏字でそれは込められているのでしょうが
あえて、それに目くじらをたてるのは

>そんなふりしてる人はたくさん知ってる

からなのだと思う。
そこで、それを「天然系の鈍感な女だけ」と言い切った。
これは、正しい。

この天然さんは先天的な資質でたとえば日本人の人口比率から
2~3割を占めている(当研究所調査結果から)
先天的な資質と環境による純粋培養からです。

ところが、時代環境もあって、
こういう人が生きづらい世の中でもあるわけだ。
そういう人たちは学習効果から
そういう姿勢を矯正していかないといけません。
目ざとく、疑う知性を身につけていくわけですね。

天然系を合理的に捉えれば「損」だと考えられる。
他人の幸福など喜んでいるのは間抜けとされる。
そんなことよりも、自分のことをしっかりせんかい!
っていうのが現実的な物の考え方だと。

とは逆に、あえてそれを努力で身につけようとする
人たちもいます。後天的な要素ですかね。
これは民度の向上とも関係します。

近代化の進化論でいくと

天然→自分至上主義→努力理想主義 となるんでしょうね。

では、この進化系の努力型理想主義はいいのか、どうか?
どんな物事にも長短表裏があるものです。弊害もある。
リリーが指摘したのはその弊害の一側面だ。
それがマニュアル化していることの問題点と
中途半端なことにあると思う。

だからできるだけそれに近づこうとするわけですが
なぜ、それを理想とするのだろう。
他人の幸せを喜べることはそんなに価値のあることなのだろうか?

わたしは、それは至難のことである、だからこそ価値がある。
と考えてみる。逆に考えると、それができなことに対する
後ろめたさがついてまわってくる。のではないか。
ここに成りたい自分、在りたい自分という理想目標があります。
結構なことだと思う。
自己中で他人の陰口悪口ばっかりいって
他人が失敗すればほくそ笑む手合いに比べれば
天使のようです。美しい。

しかしだ・・・
わたしは、こういう努力型の人を何人か知っているのですが、
この天使たちが疲弊してることが多い。
この手法が必ずしも幸せのパスポートになっていないことに
愕然とすることが、よおおおく、あります。

「自分の幸せのためにやってるんじゃなない」
と反論するかもしれないが、
だけでなく、他人を不幸に追い込んでる場合がある。
当然、その人も悲しむ理不尽があります。

これはいったいどういうわけだ。


「他人の幸福を喜べる女性は美しい」
は正しいと思うけれど、そこに「心から」を加えても
重大な問題をはらんでいると思うのです。

つまり、美しいが素晴らしいってことにならない。
美しいは美しいだけのことで、
この提言を述べた者も
それを美しいとは認めたが、それに対して
好きだ。とはいってはいない。

「そりゃそうや、綺麗なバラにはトゲがあるんやで」

とわかったようなわけのわからんことをルイちゃんはいう。

わたしたちは、文明文化の進化の過程で
大きな罠にはまっているのではないだろうか?
無論、この懐疑は
「他人の幸福を喜べる女性は美しい」
を否定するものではありません。
そんな生易しいものじゃない。
と、わたしは思う。