あかんたれブルース

継続はチカラかな

朝焼けのプレリュード

ハイジのフーガとカプ理都子(2)


ジギリを人造のものとしました。

これは私達が成長過程で学んだ学習効果によって
作られると考えていいでしょう。
そういことは誰にだってあるものです。
とくに若い頃は尊敬する人を模倣したりして
すこしでもそれに近づけようとしたりする。

けれどもジギリにはならない。


ジギリの発生にはトラウマとか傷が関係する。
成長していればなんてことはない世の常であっても
それに満たない者にとってそれは過酷だ。

先月、日光東照宮に行ってきましたが、
そこで三猿の「見ざる聞かざる言わざる」の前で解説文を読んだ。
あれは世間でいう処世術とか相場術ではなくて
子供の教育の在り方なんですね。
子供に悪いものを見せるな聞かせるな言わせるな。ってことだ。


自立が早すぎたってことでしょうね。


そこで一人で生きていくことを
誰も頼りにならない、信じられないってこと達観する。
まあ、あんまり依存心が強くていけないから
間違ってはいないけれど、タイミングの問題だ。

人は一人では生きていけない。だから、
その考えには無理がある。

ジギリを作るか作らないかは
この無理具合でしょうか・・・

ハイジが順調に健全に正当に成長するのであれば
メダカからシシャモ→ボラ→シビ→カツオ→マグロ→クジラとか
成長したのでしょうが、それをやめてメダカのままで
サヨリを作ってしまいました。
ブリキの太鼓』という映画がありましたが
あれは本人の意志ですべての成長を止めてしまった話。
ハイジの場合は二重構造だから見た目にはわからない。
本質の自己を隠しているわけです。

ジギリは、『女盗賊プーラン』とか『木曜日のリカ』とか
野良猫ロック』とか『やけっぱちのマリア』とか
『女探偵グロリア』とか『氷の微笑』です。

さばけていて、かっこいい。

面と向かって対応すると、顔に電気が着くほどに
恥ずかしくなってしまう。
ただ、それがサヨリだけのことだったら
わたしは別に惹かれない。
キレイでしなやかでカッコよくて、よかったね。と
わたしは終電の時間だといって帰るだろう。

明け方まで、三軒目の居酒屋で
ジギリの悪態と愚痴と世迷言に付き合うのは
その奥にあるハイジの存在を知るからだと思う。
これはある意味、障害ではあるけれど、魅力ともいえる。
ただし、ジギリは認めない。
そんな実体のないもの、好きになんかならない。

残念というか、なんというか
ジギリは実在しないキャラクターであり、幻だ。
それはテレビやマンガやなんかを参考にした既製品で、
それを真似た知人などを参考にする場合もあるでしょうが
出所はみんなそういうフィクションさんからのものです。

嘘っぽいし、薄っぺらなんだ。
世間を知っているよで、なにも知らない。
世間知らずってやつです。
ハイファイ・セット の歌に「素直になりた」というのがあった。
http://www.youtube.com/watch?v=-rikK9Bz0YA

素直になりたいけれど、なれないんだな、これが。
わけっていてもできないことはたくさんあるものです。


カマをかけようが、試そうが、
そんな手には乗らない。


始発の電車の音を聞いて
店を出た。
ジギリハイジと手を繋いで
人気のない商店街を抜けて、駅も通りこして
土手までいった。

朝焼けがのぼってきれいだった。

そういう風景をみせてやりたい。
朝焼けに染まる彼女の横顔はハイジにかわっていた。
わたしはそれを美しいと思った。