あかんたれブルース

継続はチカラかな

まえがき




 まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。

 この一節から司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』ははじまる。
 小さな国の開花期とは、日本の近代化のことだ。

 日本人は大急ぎでそれを成さねばならない時代環境があった。
 『坂の上の雲』の「坂」とは、その道行きの坂であり、
 楽天家でなければとうてい挫けそうになる急斜面だったことだろう。
 私たちは歴史を通して、その結果を知っているが、彼らは知らない。
 闇雲に、がむしゃらに、一途に、明治人はのぼっていったわけだ。

 日本の近代史は薩長だけで作られたものではない。
 マルクス史観などから革命史の正当化が
 西南雄藩論を一般化させている。
 当然、無理が生じる。
 その無理が短絡的な認識を生んでいるのだと思う。

 司馬遼太郎はそこに着目し、  
 伊予松山の秋山兄弟と正岡子規を主人公とした。
 もっとも、群像劇である同作品は日露戦争をヤマ場に
 小村寿太郎高橋是清乃木希典児玉源太郎などを通して
 読者に考えさせる場を与え、心を掻き乱させては
 熱狂させるのである。

 それ以前からドラスティックな小説家だったのだが、
 『坂の上の雲』を司馬文学の最高傑作と位置付けるのはそのためだ。
 それをどう読めば「美化」という認識と批判が生まれるか
 不思議でならない。
 いち歴史ファンとしては大変残念に思う。

 日露戦争百年からドラマ化にあたって
 多数の関連本が出版されたが、
 この「まるわかり」シリーズ第三作目では外伝の位置付けで、
 「日本の近代化」という実相に深く踏み込んでみたいと考えた。
 正史の裏側で奔走する楽天家たちの姿から
 点と点を結んでいく作業だ。
 まさにめぐる因果の糸車である。
 近現代史本の手法からは際物とされるだろうが、
 考察のヒントになれば幸い。
 こういったところに歴史の面白さ、ダイナミズムがあるのだと思う。

 物語は明治十七年、日露戦争の二十年前にさかのぼる