ヒドイ話のなかの矛盾の恐怖
間に合う。という思想 (2)
日本の古典的怪談噺を3つのパターンに分けたとします。
(1)四谷怪談
(2)牡丹灯篭
(3)耳なし法一
とまあ、仮にします。
(1)は加害者の非道で呪い殺されても仕方ない因果応報。
番町皿屋敷なんかもこれに入る。
日本の怪談の基本中の基本で、「笠地蔵」や「花咲か爺さん」の
ような道徳心を養う民話の延長のようなものだ。
運転免許の書き換えで見せられる交通事故の悲惨さの映像と同じ。
(2)は被害者も加害者もどっちがどうのというわけじゃない。
原作ではもっと話は膨らんで不義や因縁の世話物になっていますが
基本的には新三郎とお露の悲恋がベースです。
ある意味でちっとも恐くない。むしろ甘美な死の誘惑。だから
恐いのかもしれません。恨みをもたれなくても取殺される。
ここに当時の、そして現代の、葛藤があるのかも。
(3)はまったく被害者の迷惑噺だ。
まったくワガママな亡霊! (1)は因果応報で納得できても
この(3)は理不尽極まりない。
つまり、霊というものはフェアじゃない。
不条理で理不尽なものです。そのワガママ度は
(1)<(2)<(3) となる。
だから恐いんでしょうね。
逆恨みってやつだ。これがあるんだな。
だから真面目に誠実に生きていたからって安全じゃあない。
その真骨頂というべきケースとして
『蔦紅葉宇都谷峠』というのがあります。
1970年の東京12チャンネルでドラマ化された同作品から
ストーリーを紹介すれば、
十兵衛は中間だった頃の主人尾花六郎左衛門に頼まれて
上方に金策に行きましたがうまくいきません。
それをあんじて六郎左衛門は鞠子宿まで迎えにきますが
その不首尾を聞いて落胆して、一人江戸に帰ってしまう。
鞠子宿で一泊した十兵衛は文弥というめくらの按摩と相部屋になる。
その晩、盗賊が入りますが十兵衛に取り押さえられてしまう。
聞けば、文弥の懐の金を目当てに三日も付け狙っていたとか。
その金額百両と聞いて驚き、その隙をついて盗人は遁走。
貧乏按摩の文弥の百両とは京都で座頭の位を取得するための金。
この金を工面するのに姉は身売りまでしたという。
明日は宇都谷峠越え。それでは物騒と十兵衛は
その夜に文弥を伴ってボディーガードしてやる親切な男でした。
江戸に帰る十兵衛にとって逆方向なんですからね。
ちょうど夜が明けた頃に峠の頂上についた。
「じゃあ文弥さん気をつけていくんだよ」
「旦那さん、有難うございます」
ふとそこで、十兵衛は思いに駆られた・・・
「文弥さん、頼みがあるんだが・・・私の話を聞いてくれないか」
「なんでしょう、親切にしていただいた旦那さんの頼みなら・・・」
そこで十兵衛は百両の金を貸してくれないかと言った。
途端、文弥の態度は豹変! そのあまりの態度の硬直に十兵衛びっくり。
「いや、そうじゃない。どうか私の話をすこし聞いてくれないか」
と頼んでも耳を貸さない。泥棒呼ばわりまでする。
そんなこんなで揉み合っているうちに激高した十兵衛は
文弥を殺めてしまった。
あまりにも衝動的というか、魔がさした、ってやつでしょうか。
現代風に弁護すれば「殺意はなかった」なのです。
我を取り戻し、恐ろしくなった十兵衛は文弥の懐の金を持って
峠を走り降りて江戸に向かったのです。
その一部始終を昨夜の盗人が見ていた。
次の宿場で村人が騒いでいる。
その人だかりを覗いた十兵衛は驚いた。
「だ、旦那様・・・」
なんと元主人の尾花六郎左衛門が自害して果てている。
その死体の横にある遺書を奪って十兵衛は走って逃げた。
そして、江戸に着きます。
品川の町に入ると遊女が助けを求めてくる。
嫌な客から助けてくれと、
「いや、私は先を急ぐんだ」といっても
「お願いです私を一晩買ってください」と
結局、十兵衛は店に上がらされてしまう。どうも押しに弱い。
その女と二人っきりで・・・十兵衛は悄然
さて主人のために人殺しまでしてしまったのに
その主人は自殺。この百両はいったいどうすればいいのか
聞けば、この女郎は初めて店に出たという。
弟のために身売りした可哀想な女。(えっ?もしかして文弥の姉か?)
十兵衛は女を抱きしめて「お前さんを好きになってみせる」
と身請けするのであります。
それから半年、女郎は十兵衛の女房になって
十兵衛の店は繁盛して幸せ一杯です。
そんなときに尾花六郎左衛門の妻が訪ねてくる。
主人が帰ってこない!
大阪の金策の金はどうした!
訳を話しても信じてくれません。遺書を見せても信じない。
奉行所に訴えて詮議してもらうという。
そのとき文弥の亡霊が出て婦人に取り憑いて
逆上した十兵衛が首を絞めて殺す。よくあるパターンです。
その一部始終を女房が見てた。文弥が乗り移って見せたんだ。
ことの次第を知った女房は苦しんで目を患ってしまう。
それを看病する十兵衛でしたが
文弥の亡霊とそれに憑かれた女房と例の盗人に脅迫されて
最後は半狂乱で自殺してしまう。という話。
短くまとめようと思ったですが長くなっちゃった(汗)
しかし、この話は変だと思いませんか!
確かに十兵衛は殺人犯ですが
二度目の殺人は文弥のせいだ。
その文弥にしても自分のことしか考えていない守銭奴だ。
姉は文弥のために身売りした。
その姉を助けた十兵衛を呪い殺し、姉の幸せをめちゃくちゃにした。
また、尾花六郎左衛門の未亡人も変だ。
遺書をみても信じない。武家の女なら筆跡でわかるだろうに。
というか猜疑心で満ち溢れている。
そしてこの盗人。
第一、十兵衛が助けなかったら
文弥の金はこの盗人に取られていたでしょう。
ドラマでは同心の息子がこの盗人を手引きしてたりもしますが
わたしゃ十兵衛に同情しましたよ。
原作では十兵衛の妻と文弥の女房は別人のようです。
また、尾花六郎左衛門の百両はお家騒動に絡んだもので
その敵側だったのが文弥の父親だったとか。複雑な因縁噺なのだ。
問題は、そういうこよりもこれで観客が納得したってことだ。
江戸時代だから現在の私たちと感覚が違う?
じゃあ1970年に製作された上記のストーリーは?
これは単なるシナリオの破綻か?
いやあ、これでいいんですよ。
この矛盾が、理不尽が、非合理が、日本の怪談の、
因縁話の核なんだ。
だから、みんな震え上がったわけだ。
成仏できない執念深い者ですから、そりゃあ逆恨みだってなんだって
するでしょう。通りかかっただけでも憑くかもよ。
現代の通り魔殺人だって
ストーカー殺人だって同じだ。
ああいうのは身勝手な生霊ってものなんだ。
それが恐怖なんだと、思う。
40年前の日本人は、そういうことを理解していたんだな。
だからこのシナリオでパスした。
いまじゃあ考えられないことです・・・
悪霊とは、自分勝手で身勝手で
執着心の強い、恐ろしいものなのです。
そういうなかの因縁というのが恐いのだと震えわけです。
日本の古典的怪談噺を3つのパターンに分けたとします。
(1)四谷怪談
(2)牡丹灯篭
(3)耳なし法一
とまあ、仮にします。
(1)は加害者の非道で呪い殺されても仕方ない因果応報。
番町皿屋敷なんかもこれに入る。
日本の怪談の基本中の基本で、「笠地蔵」や「花咲か爺さん」の
ような道徳心を養う民話の延長のようなものだ。
運転免許の書き換えで見せられる交通事故の悲惨さの映像と同じ。
(2)は被害者も加害者もどっちがどうのというわけじゃない。
原作ではもっと話は膨らんで不義や因縁の世話物になっていますが
基本的には新三郎とお露の悲恋がベースです。
ある意味でちっとも恐くない。むしろ甘美な死の誘惑。だから
恐いのかもしれません。恨みをもたれなくても取殺される。
ここに当時の、そして現代の、葛藤があるのかも。
(3)はまったく被害者の迷惑噺だ。
まったくワガママな亡霊! (1)は因果応報で納得できても
この(3)は理不尽極まりない。
つまり、霊というものはフェアじゃない。
不条理で理不尽なものです。そのワガママ度は
(1)<(2)<(3) となる。
だから恐いんでしょうね。
逆恨みってやつだ。これがあるんだな。
だから真面目に誠実に生きていたからって安全じゃあない。
その真骨頂というべきケースとして
『蔦紅葉宇都谷峠』というのがあります。
1970年の東京12チャンネルでドラマ化された同作品から
ストーリーを紹介すれば、
十兵衛は中間だった頃の主人尾花六郎左衛門に頼まれて
上方に金策に行きましたがうまくいきません。
それをあんじて六郎左衛門は鞠子宿まで迎えにきますが
その不首尾を聞いて落胆して、一人江戸に帰ってしまう。
鞠子宿で一泊した十兵衛は文弥というめくらの按摩と相部屋になる。
その晩、盗賊が入りますが十兵衛に取り押さえられてしまう。
聞けば、文弥の懐の金を目当てに三日も付け狙っていたとか。
その金額百両と聞いて驚き、その隙をついて盗人は遁走。
貧乏按摩の文弥の百両とは京都で座頭の位を取得するための金。
この金を工面するのに姉は身売りまでしたという。
明日は宇都谷峠越え。それでは物騒と十兵衛は
その夜に文弥を伴ってボディーガードしてやる親切な男でした。
江戸に帰る十兵衛にとって逆方向なんですからね。
ちょうど夜が明けた頃に峠の頂上についた。
「じゃあ文弥さん気をつけていくんだよ」
「旦那さん、有難うございます」
ふとそこで、十兵衛は思いに駆られた・・・
「文弥さん、頼みがあるんだが・・・私の話を聞いてくれないか」
「なんでしょう、親切にしていただいた旦那さんの頼みなら・・・」
そこで十兵衛は百両の金を貸してくれないかと言った。
途端、文弥の態度は豹変! そのあまりの態度の硬直に十兵衛びっくり。
「いや、そうじゃない。どうか私の話をすこし聞いてくれないか」
と頼んでも耳を貸さない。泥棒呼ばわりまでする。
そんなこんなで揉み合っているうちに激高した十兵衛は
文弥を殺めてしまった。
あまりにも衝動的というか、魔がさした、ってやつでしょうか。
現代風に弁護すれば「殺意はなかった」なのです。
我を取り戻し、恐ろしくなった十兵衛は文弥の懐の金を持って
峠を走り降りて江戸に向かったのです。
その一部始終を昨夜の盗人が見ていた。
次の宿場で村人が騒いでいる。
その人だかりを覗いた十兵衛は驚いた。
「だ、旦那様・・・」
なんと元主人の尾花六郎左衛門が自害して果てている。
その死体の横にある遺書を奪って十兵衛は走って逃げた。
そして、江戸に着きます。
品川の町に入ると遊女が助けを求めてくる。
嫌な客から助けてくれと、
「いや、私は先を急ぐんだ」といっても
「お願いです私を一晩買ってください」と
結局、十兵衛は店に上がらされてしまう。どうも押しに弱い。
その女と二人っきりで・・・十兵衛は悄然
さて主人のために人殺しまでしてしまったのに
その主人は自殺。この百両はいったいどうすればいいのか
聞けば、この女郎は初めて店に出たという。
弟のために身売りした可哀想な女。(えっ?もしかして文弥の姉か?)
十兵衛は女を抱きしめて「お前さんを好きになってみせる」
と身請けするのであります。
それから半年、女郎は十兵衛の女房になって
十兵衛の店は繁盛して幸せ一杯です。
そんなときに尾花六郎左衛門の妻が訪ねてくる。
主人が帰ってこない!
大阪の金策の金はどうした!
訳を話しても信じてくれません。遺書を見せても信じない。
奉行所に訴えて詮議してもらうという。
そのとき文弥の亡霊が出て婦人に取り憑いて
逆上した十兵衛が首を絞めて殺す。よくあるパターンです。
その一部始終を女房が見てた。文弥が乗り移って見せたんだ。
ことの次第を知った女房は苦しんで目を患ってしまう。
それを看病する十兵衛でしたが
文弥の亡霊とそれに憑かれた女房と例の盗人に脅迫されて
最後は半狂乱で自殺してしまう。という話。
短くまとめようと思ったですが長くなっちゃった(汗)
しかし、この話は変だと思いませんか!
確かに十兵衛は殺人犯ですが
二度目の殺人は文弥のせいだ。
その文弥にしても自分のことしか考えていない守銭奴だ。
姉は文弥のために身売りした。
その姉を助けた十兵衛を呪い殺し、姉の幸せをめちゃくちゃにした。
また、尾花六郎左衛門の未亡人も変だ。
遺書をみても信じない。武家の女なら筆跡でわかるだろうに。
というか猜疑心で満ち溢れている。
そしてこの盗人。
第一、十兵衛が助けなかったら
文弥の金はこの盗人に取られていたでしょう。
ドラマでは同心の息子がこの盗人を手引きしてたりもしますが
わたしゃ十兵衛に同情しましたよ。
原作では十兵衛の妻と文弥の女房は別人のようです。
また、尾花六郎左衛門の百両はお家騒動に絡んだもので
その敵側だったのが文弥の父親だったとか。複雑な因縁噺なのだ。
問題は、そういうこよりもこれで観客が納得したってことだ。
江戸時代だから現在の私たちと感覚が違う?
じゃあ1970年に製作された上記のストーリーは?
これは単なるシナリオの破綻か?
いやあ、これでいいんですよ。
この矛盾が、理不尽が、非合理が、日本の怪談の、
因縁話の核なんだ。
だから、みんな震え上がったわけだ。
成仏できない執念深い者ですから、そりゃあ逆恨みだってなんだって
するでしょう。通りかかっただけでも憑くかもよ。
現代の通り魔殺人だって
ストーカー殺人だって同じだ。
ああいうのは身勝手な生霊ってものなんだ。
それが恐怖なんだと、思う。
40年前の日本人は、そういうことを理解していたんだな。
だからこのシナリオでパスした。
いまじゃあ考えられないことです・・・
悪霊とは、自分勝手で身勝手で
執着心の強い、恐ろしいものなのです。
そういうなかの因縁というのが恐いのだと震えわけです。