あかんたれブルース

継続はチカラかな

あなたのシモの世話がしたいの

恋愛卜伝十二番勝負(第五番)


思い立ったらいつも吉日の馬太郎ですが
突然、なにをトチ狂ったかの恋愛ト伝で怪訝に思った方も多いでしょう。

いやね、一昨日チャップリンの『ライムライト』を観ましてね。
あの名曲の調べに古典映画の名作に悪酔いしたのさ。

古い酒は甘いという。
ライムライトは甘かった。

自殺を図とうとする踊り子テリーを救った
往年の喜劇役者カルヴェロ(チャップリン)は
その美しい娘と奇妙な同棲生活をはじめる。
テリーは精神的な要因で立てない、そして踊れない。
そんな彼女を献身的に看病し、勇気づけるカルヴェロに
テリーはいつしか愛情を感じていく。

良識あるカルヴェロは「プラトニック」という前提をまず口にした。
そして、テリーに訪れる幸福の予言を語って聞かせる。

 あなたを愛しているのカルヴェロ

 テリー、君は若い。わたしは既に老人だ。

 あなたの世話をしたいの

やがて転機が訪れテリーは歌劇の主役の座を射止めます。
カルヴェロは時代遅れの自分を確認すると
若く未来のあるテリーの幸せを願って、姿を消すのでした。


それから、再会した二人。
カルヴェロはラストショーに臨み、復活を遂げる。
鳴り止まない拍手と歓声
しかし、年老いた喜劇役者の人生は終わりを迎えよとしていた。
最期は舞台のソデで
美しく舞うテリーの姿を見守りながら
息を引き取る。


この忘れ去られた主人公にチャンプリンが自分を重ねて
いることは一目瞭然なのだ。キートンを誘って。
一夜限りのラストショーは幕をとじる。
ライムライトは、チャップリンの願望として、
とても甘美な作品です。
それは淋しがり屋のアメリカ人の祈りなのかもしれない。
ストイックでもあり、それを分別と解釈することもできる。

カルヴェロには負い目がある。
それは栄光から転落した自分の境遇に対するものか
それとも失われた若さに対するものか
もし、前者であったとしたら、いまだ成功者のままの自分だったら
はたしてカルヴェロはテリーの愛を受け容れただろうか?
いえ、それはありえない。
カルヴェロは、チャップリンは、それはしない。
そう確信させられるのです。

テリーは若く美しい。眩しい

カルヴェロの負い目は、その眩しさであったけれど、
とは別に
自分自身に対する尊厳、プライドがあった。
それは自己愛であり、
テリーに対する無償の愛でしか、
それを体現することはできなかったのだ。

チャップリンは愛を知っている。

それでも、それはとても淋しくいものだった。
だから、ある解決策でこの作品を締めくくった。
それは死でした。

そのシチュエーションは甘美的なものだった。

だからといって、わたしはどこかの映画評論家のように
この作品を批判などできないな。
むしろ、恋愛とか、愛とか、幸せとかに
これほど肉薄した作品はないのではなかろうかと思う。

笑いのなかに、哀愁(ペーソス)を織り込んだ
喜劇王の残した名作中の名作だと思いました。


「じゃあチャップリンは自分だけ幸福に包まれて
 テリーを残して死んじゃったわけじゃん。そんでいいの?」

そうだよね。映画では若い作曲家ネヴィルの存在から
先々の含みを匂わせいるけれど、
テリーがカルヴェロを愛していることは紛れもない事実だ。
だいたいこのネヴィルはカンが悪くてまだまだ浅い。
テリーはそういうところも比較して
断然、カルヴェロに惚れこんでいる。

「だったら、尚のこと矛盾じゃないのさ」

恋愛とかいうもの自体が矛盾するものなんじゃないかな。
たとえば、「わたしより先に死んじゃイヤ」といった
女性のくちから
「あなたの介護がしたい」というような
そういう矛盾によって愛はできている。

「一番の矛盾は女よね」