あかんたれブルース

継続はチカラかな

問題はよん、はいくつか

恋愛卜伝十二番勝負(第六番)


この間、映画『櫂』を観て、それはまあ面白かったのですが
この夫婦の愛憎というのがいまひとつ解せなくて
宮尾登美子の原作と、続編にあたる『春燈』と『朱夏』を読んでみた。
案の定、原作とはニュアンスが違うよん。

これだから五社英雄の「女の情念」っていうのは怪しいんだ。
こういう観念的な捉え方はクリエーターとしてどんなものか?
というよりも、それを絶賛するほうに問題があると思う。
そんなのが積もり積もって常識化して
愛というものが誤解されていくのだと思う。

これは伊丹万作の『無法松の一生』にもいえることだけど
五社英雄はそれよりも低俗だ。
なぜならば、主人公としての富田岩伍(緒方拳・演)を
単なる封建的暴君好色漢として薄っぺらく描き
ヒロインの喜和(十朱幸代)をそんな男に蹂躙される
薄っぺらい存在にして、しまっているからです。

リアリティーがない。それじゃ価値がない。

映画のラストで五社の間抜けが原作にあった岩伍の苛立ちを
ついうっかり脈絡もなく描いてくれなければ
そのまま素通りしてしまうところだったよん(汗)。
ホントに駄目な監督です。
深作欣二だったら絶対にしないでしょうし、
脚本が高田宏治でなく笠原和夫なら、絶対にこんなホンは書かない。
と思いました。いや高田さんは頑張ったのかもしれない。
五社が変えたんだな。

ここまで、映画と原作を知らないと
なんのことかさっぱりわからないでしょうねえ(汗)
ごめん、書き残しておきたかったんだよん。
最近忘れっぽくて(涙)

恋愛ト伝第六番、なんか・・・そうそう
朱夏』を読んでいて、原作者の宮尾登美子が成長して
恋愛結婚しました。夫の実家は土佐でも農村地区です。
そこで、当時は恋愛結婚を「畜生」結婚みたいなニュアンスで
蔑んでいる風潮をさらりと書き留めてあった。

こういうのを封建的とか、古い因習と考えていけない。

宮尾登美子の実家は高知でも都市部にある。
この結婚に父岩伍はさほど反対はしなかった。
ここに、都市部と農村部、都会と田舎のギャップがあります。

さらに、時代の時間軸の変容がある。
前々作の『櫂』は大正から昭和初期の話です。
ちょうどNHKの朝の連ドラ『カーネーション』と同時代。
同じ都市部でも大阪と土佐の違いがありますよね。
カーネーションで恋愛を否定する風潮はさほどない。
これをドラマの絵空事としちゃあいけない。
時代のせいがあるのです。それと田舎具合もね。

朱夏』は昭和18年ぐらいでしょうかね。
戦況はだいぶ悪化してるようでしたから・・・
この時期には恋愛結婚を卑しむ風潮が常識化していた。

恥なのです。

武士は食わねど高楊枝。というのがありますが
平民、農民のくせにみんな武士、殿様貴族みたいなんだな。
武士は死を怖れた。だから死を人質にして、
なにかあると死で決しようとしてしまう罠に嵌った。
恐怖のあまりにそれで虚勢を張って実行しちゃったわけだ。

恋愛に対しても同じ。みんな恋愛したい。
でもそれを求めるのは恥ずかしいと考えるようになる。

生きることを望む恥、愛することの恥。

だいたい、都市部でない田舎では「夜這い」の風習が
根強く残っていたはずなのですが、本音と建前なのでしょうかね。
都市部ではありません。あったら犯罪になる。
あっても不倫ぐらいです。

まあ、そういう恋を忘れたカナリヤ年配者たちが
そういう掟を若者に押し付けて
生めよ増やせよ家のためお国ためときたもんだ。
大した家でもないんですよん。士族でもなかったはずなのに(涙)

こういうのを封建的とか、古い因習と考えてはいけない。
としたのは、時代に逆行しているからです。
幕末以前はフリーセックスだったと考えてもいいんです。
つまり、この逆行現象は日本の近代化がもたらした
不自然なものなのだ。

仕掛け人は誰だろう?

まあそういうのは敗戦でおじゃんになったのですが、
日本人の恋愛観とか結婚観はそのときの後遺症かなんかで
いまひとつ歩行が怪しいとわたしは思うのです。

そんなことを宮尾登美子とか五社のアホとか
チャップリンの映画を鑑賞しながら
想いに老ける、秋でした。

寒くなりましたね。
今朝は冬の歌が聞こえてきましたよん。



♪馬ちゃん馬ちゃん大好きよん よんよんよん





めでたい
オヤジじゃのう(涙)
ハッピー!