あかんたれブルース

継続はチカラかな

ガマンの限界にある危険

続・暴力を考える(我慢・2)


我慢を否定するわけではないのですよ。
念のために、あえて釘をさしておきますが。


たとえば、その我慢の結果の暴力は
結局は暴力を行使する大義名分になっていないか。

たとえば、水戸黄門もそうだ。
最初から身分を明かせば、お代官も越後屋
悪事は働かなかったかもしれません。
膝つけあわせて、「備中守よ悪いことしちゃダメ」とか
諭してやれば、与平もお菊も死なずにすんだかも

あれじゃ囮捜査だよね。

悪を根絶やしにするため?
しかし、人間そうそう悪人なんているもんじゃない。
そんなのは横井英樹ぐらいのもんです。

山県有朋だって
安田善次郎だって
笹川良平だって
児玉誉士夫だって
田中角栄だって、そうそう悪人ってわけじゃない。

横井英樹ぐらいのもんですって(笑)


イジメでも暴力でも悪事でも、過ちでも、

させない。

ってことが大事なのではなかろうか。
とすれば、その我慢は結果として悲劇を生む。
だからって、即「抑止力」ってしてしまわないでね。


時代劇のコンセプトは「勧善懲悪」です。

しかし、世の中そう完全に善悪をきっぱりわけられない。
だいたいからしてなにが正しくてなにが間違ってるのか
当事者だってわからないことがある。

悪代官だって領民の幸せを願って
心を鬼にしてるのかもしれませんよ。
人によるでしょうけど。

ちょっと恐いかなあと思ってしまうのは
水戸黄門や時代劇などの勧善懲悪劇や
高倉健さんのなどの我慢劇には
私達のなかに暴力行使を強く求める欲求と
そのための大義名分に「我慢」が利用されていることだ。

ここまできたら、我慢の限界線、を探っている。
無論、それ以前にその我慢の許容範囲以内で事態が
収束すればいいんでしょう。
問題はそうならない場合が多いこと、と
その手法が問題を悪化させるケースが多いことだ。

また、テレビドラマのように勧善懲悪にパキッと
区分けできないのが世の常、現実です。
それを力技で分別する危うさも含まれている。

そこには絶対的な善と悪が必要になる。
そのためにドラマでは過剰に悪役の悪徳を演出するわけだ。

京都の東映高倉健と池辺良が
極悪非道の親分宅に殴り込みをかけるのにはそれがある。
大義名分があるわけだ。
それは東京の東映のまむしの兄弟、文太と川地民夫にしても同じ。
それでも、冷静な観客は途中で心配になるものです。

こんなに何十人も殺戮して・・・自首しても死刑だな(汗)
昨年話題になった『告白』では
犯人が罪をとわれない復讐劇が展開されていましたけどね。

まあそういうのもあって東映任侠路線などは廃れたんでしょうが
時代劇の場合は現代劇と違って別世界のせいか
いまだ健在なのかもしれません。

ま、そこで、「暴力ではなにも解決しない」提言が信奉されるのかも。

問題は、映画やテレビドラマなどの絵空事ではなく
現実社会で起きている、かかわりのある理不尽や暴力だ。



我慢だけじゃすまされない。



ここに布石