釘刺しだらけの匍匐前進
続・暴力を考える(我慢・3)
我慢に話を戻して、
昨夜、「やさしさの虐待(暴力・いじめ)」という
記事をアップしましたが、これを親子関係から
男女間、夫婦の問題に置き換えてみたいと。
人間関係には不幸な相互関係があります。
よく、フィクション(ドラマ等)や
ノンフィクション(知り合い、人生相談、再現ドラマ等)
でそれは十分ご存知だと思う。
夫婦喧嘩は犬も喰わない
と申しまして、そういうのはどっちもどっちだったりする
場合が多いものです。が
なかには、どう考えて片っ方に問題がある場合がある。
わかりやすく
DV男(女)と考えてみてくれてもいいです。
不思議なもので、そういう相手には
「やさしい」タイプが添っているケースが多い。
そういうタイプは「我慢」で、なんとかしようとします。
そこに、母性(父性)があるでしょうし、
暴力に支配されてる場合もあれば、依存もあるでしょう。
「この愛で、いつか変わってくれる」とか
耐える。
という行為はある種「美徳」と捉えられている。
日本にはそういう土壌があります。
こういう「やさしさ」「一途さ」「健気さ」は
なかなか否定しづらいものだ。
しかし、敢て、それをみつめて・・・
本当にそれがやさしさなのか?
こういったDVさんは「弱者」である。これは正しい。
そういう相手を気遣う人は母性(父性)の豊かな人だと思う。
それはいいのだけれど、そのまま悲劇が拡大している、
していくことはあるわけだ。
そのとき、傍観者である我々は顔をシカメテ、世の理不尽を
嘆くだけの無力感を味わうだけ。それだけです。
イジメをやめましょう。虐待をやめましょう。DVを・・・
いくら禁じてもやまないよ。
ある意味で、こういった「やさしさ」が
イジメや虐待やDVを育んでいて増長させエスカレートさせてる。
こう書くと、「やさしを否定するのか」とクレームを受けそうですが
誰もそんなことは言っていない!
そのやさしさに問題があるんじゃないか、と言っている。
どうもいまの世の中、
やさしさとか愛と名づければなんでもOKなところがある。
これが、非常に問題です。大問題だ。
その「やさしさ」は本当にやさしいのか?
その「愛」とやらは本当に愛なのか?
わたし思うに、こういった「やさしさ」や「愛」は
子育てに似ていると思います。
子供が可愛いからといって甘やかしてばかりいたら
子供はダメになってしまうわけだ。
これは非常に解り易い喩えだと思うのだけれど、
こういうと、「上から目線」だとか
言い出す人達も多いのが現代社会の大問題のひとつだ。
ここに「恐れ」がある。
怯えや不安があります。
もし、その源泉が「インテリジェンス」から発しているとすれば
それは誤った「インテリジェンス」だ。
インテリジェンスは知性とか知識とか情報です。
つまり、その知性や知識や情報は間違っている。と
指摘せざる負えない。
やさしさが虐待に暴力になるとすれば
そんなものはやさしさじゃない。
たとえば、そういった横暴を容認して
「さあ気が済むまでやりなさい」と身を挺する
そんなシチュエーションがありますよね。
そりゃ一番の理想はその途中で相手が
それに気づいてくれればいいのでしょうが、それはレアで
どんどんエスカレートしていく。
これは逆に相手を追い込んでいくことでもある。
やってる本人も引っ込みがつかない、後戻りできない
ところまで追い込んでいる場合のほうが断然多いのだ。
やさしさの虐待とはここにある。
で、ここで問題なのは
一見、愛の受難者のような役割を担う被害者が
責任回避している点です。
これをある種の「保身」というには酷ですが、それは否定できない。
愛しているんなら、相手のことを思うならば
できるはずだ。
だって、相手は「実は」苦しんでいるわけでしょう。
薬物中毒者が薬が切れて苦しんでいるから
薬物を与えているのとかわらない。
厳しいですか?
世の中って厳しいものですよ。
やさしさとか愛とか命名して
それを横暴や理不尽や暴力の温土にしてはいけない。
で、何遍も釘を刺しますが
やさしさとか愛を否定しているわけではなく
暴力や戦争を肯定しているわけではありません。
我慢に話を戻して、
昨夜、「やさしさの虐待(暴力・いじめ)」という
記事をアップしましたが、これを親子関係から
男女間、夫婦の問題に置き換えてみたいと。
人間関係には不幸な相互関係があります。
よく、フィクション(ドラマ等)や
ノンフィクション(知り合い、人生相談、再現ドラマ等)
でそれは十分ご存知だと思う。
夫婦喧嘩は犬も喰わない
と申しまして、そういうのはどっちもどっちだったりする
場合が多いものです。が
なかには、どう考えて片っ方に問題がある場合がある。
わかりやすく
DV男(女)と考えてみてくれてもいいです。
不思議なもので、そういう相手には
「やさしい」タイプが添っているケースが多い。
そういうタイプは「我慢」で、なんとかしようとします。
そこに、母性(父性)があるでしょうし、
暴力に支配されてる場合もあれば、依存もあるでしょう。
「この愛で、いつか変わってくれる」とか
耐える。
という行為はある種「美徳」と捉えられている。
日本にはそういう土壌があります。
こういう「やさしさ」「一途さ」「健気さ」は
なかなか否定しづらいものだ。
しかし、敢て、それをみつめて・・・
本当にそれがやさしさなのか?
こういったDVさんは「弱者」である。これは正しい。
そういう相手を気遣う人は母性(父性)の豊かな人だと思う。
それはいいのだけれど、そのまま悲劇が拡大している、
していくことはあるわけだ。
そのとき、傍観者である我々は顔をシカメテ、世の理不尽を
嘆くだけの無力感を味わうだけ。それだけです。
イジメをやめましょう。虐待をやめましょう。DVを・・・
いくら禁じてもやまないよ。
ある意味で、こういった「やさしさ」が
イジメや虐待やDVを育んでいて増長させエスカレートさせてる。
こう書くと、「やさしを否定するのか」とクレームを受けそうですが
誰もそんなことは言っていない!
そのやさしさに問題があるんじゃないか、と言っている。
どうもいまの世の中、
やさしさとか愛と名づければなんでもOKなところがある。
これが、非常に問題です。大問題だ。
その「やさしさ」は本当にやさしいのか?
その「愛」とやらは本当に愛なのか?
わたし思うに、こういった「やさしさ」や「愛」は
子育てに似ていると思います。
子供が可愛いからといって甘やかしてばかりいたら
子供はダメになってしまうわけだ。
これは非常に解り易い喩えだと思うのだけれど、
こういうと、「上から目線」だとか
言い出す人達も多いのが現代社会の大問題のひとつだ。
ここに「恐れ」がある。
怯えや不安があります。
もし、その源泉が「インテリジェンス」から発しているとすれば
それは誤った「インテリジェンス」だ。
インテリジェンスは知性とか知識とか情報です。
つまり、その知性や知識や情報は間違っている。と
指摘せざる負えない。
やさしさが虐待に暴力になるとすれば
そんなものはやさしさじゃない。
たとえば、そういった横暴を容認して
「さあ気が済むまでやりなさい」と身を挺する
そんなシチュエーションがありますよね。
そりゃ一番の理想はその途中で相手が
それに気づいてくれればいいのでしょうが、それはレアで
どんどんエスカレートしていく。
これは逆に相手を追い込んでいくことでもある。
やってる本人も引っ込みがつかない、後戻りできない
ところまで追い込んでいる場合のほうが断然多いのだ。
やさしさの虐待とはここにある。
で、ここで問題なのは
一見、愛の受難者のような役割を担う被害者が
責任回避している点です。
これをある種の「保身」というには酷ですが、それは否定できない。
愛しているんなら、相手のことを思うならば
できるはずだ。
だって、相手は「実は」苦しんでいるわけでしょう。
薬物中毒者が薬が切れて苦しんでいるから
薬物を与えているのとかわらない。
厳しいですか?
世の中って厳しいものですよ。
やさしさとか愛とか命名して
それを横暴や理不尽や暴力の温土にしてはいけない。
で、何遍も釘を刺しますが
やさしさとか愛を否定しているわけではなく
暴力や戦争を肯定しているわけではありません。