あかんたれブルース

継続はチカラかな

冷たいノーマルと素敵な変態

続・暴力を考える(我慢・5)SM余談


M教師ってタイトルで期待したのにと
JJ.から案の定クレームを受けました(汗)
昨日17時27分の話です(涙)
そんなわけで仕方ない
暴力について考えるうえでのSとMの話をします。

サディストの「S」とマゾヒストの「M」
サディズムの「S」とマゾヒズム「M」
で、いわゆるこういったカップルが成立すると
SMプレイとなって変態行為とされている、アブノーマルかな。

ところが、心理学的な観点から
人間は大なり小なりこのふたつの傾向があって
みなさんそれぞれS的だったりM的だったりするそうな。

社会で成功するのは若干Sに傾くタイプで
カルロス・ゴーンがこのタイプとか。
ティーブン・ジョブズはもう少し傾いていますかね。

日本人は逆に若干Mに傾いた成功モデルが定番です。
叩かれても叩かれてもへこたれない。根性の人。
巨人の星』の星飛馬が、これです。父一徹は真性のSだ。
伴宙太はSでしたが、飛馬との友情からMに転向。だから
M気の星明子とは上手くいくわけがない。
明子がSの花形満に惹かれるのは自然の摂理なのだ。
(大リーグボール攻略のためにMの時期はあったけど)
そして原作者の梶原一騎は極悪のSだった、わけです。

因みに『あしたのジョー』の白木葉子はS、ね。

日本の心理学は小此木啓吾でだいたいは語れるとする
馬太郎にとって、漫画のキャラ相関図はSMで語れ
超常現象は電波系で語れ
社会問題は呪いで語れると豪語する、所以であります。

さて、それはそうとして、はたしてSとMはそんなに
単純なものなのか、どうか。
つまり、たとえばSの残虐性と、即判断していいのか?

たとえば、わたしは4年前に妃嬢から「究極のSだ」といわれて
悩みに悩んで考えすぎて髪の毛は剥けてハゲ散らかしてしまった。
俺の頭髪カムバック!
いや、禿げてない短くカットしているだけですからね念のために。
これはファンションですから。

さて、そのときの考察のヒントに団鬼六先生あり。

2011年に多くの著名人が亡くなられましたが
鬼才団鬼六は慢性腎不全のため五月六日永眠。合掌
延命治療を手術を拒んだんですよね。
生き様も死に様も立派だ。

団先生はご存知SM変態小説家の大家でありました。
ご本人も縛らないと萌えない究極のSで
ある意味でのセックス障害者だったといえるのかもしれない。
それは否定しない。

しかしだ、団先生はやさしい。
こんなに人間味あふれ、人情豊かな、心優しい文筆家を
わたしは知らない。

団先生のそういった横顔は
著書『真剣師小島重明』や自叙伝『蛇のみちは』での
タコ八郎や谷ナオミなどとの交流から溢れるようにあきらかだ。

この人の存在を証として
サディスト=残虐な人、暴力的な人間。
とは絶対にならない。
とは正反対の
哀れみ深い、慈愛の人だ。ただ、それに萌えてしまう(汗)

団鬼六って変態サディストなのかなあ・・・?

変態ってなんだあ?

変態でもいいじゃないか!

ノーマルな人間の冷たさのなかには
残酷さや無責任や保身や不実がある。
団鬼六にそれは皆無だ。
だったらわたしは変態でいいから団先生のように生きたい。
団鬼六のように死にたい。

暴力について考えてみる。

団鬼六は絶対に虐待やイジメや意地悪はしない。

みんな、変態でいこうぜ!