あかんたれブルース

継続はチカラかな

それじゃ解決しないのよ~ん

続・暴力を考える(我慢・6)


昨夜、『妖怪人間ベム』をお煎餅かじりながら
観てて唸った。毎度のことながらよく出来ている。

人間のなかの善悪の資質についてのアプローチ
哲学的だよね。

その悪の部分を、ここでいう「暴力」とか
昨日の「サディズム」と重ねてみてもいいでしょう。
人間のなかには善と悪が共存共生している。
でもそれだけじゃない。
その悪もその善にも表裏があって
事と次第、場によっては善が悪にもなり
悪が善にもなるものです。

だから、団鬼六という人間のサディズム(S資質)は
途方もない溢れるばかりの慈愛となったわけだ。
だから、別に誰に迷惑をかけているわけでもない
団鬼六がノーマルであろうがなかろうが
変態であってもなくてもいいのです。

えっ?悪質俗悪図書を生み出している?
SMは悪なのか? 同じことを谷崎潤一郎にいえるんか?
そういった浅はかで甘っちょろい揚げ足取りこそ俗悪じゃないのか。
そういうのが一番に戦争に直結するものです。

さて、そんなことはどうでもいいとして、
善悪の基準査定は難しいものです。
その人の立場、利害などによってそれは違ってくる。
正義というものが曖昧だ。

そして、現代の私達は正義を恐れている。
そこに「独善」というものを意識するからでしょう。

正義とはなんだ?

わたしは『仁義なき戦い悪の金言』で
仁義の義を
知性と勇気としました。
考える力と行動する力、そこに義があると。
仁は当然、愛です。

このどれかひとつが欠けてもダメみたいです。
正義とは正しい義ですから
正しい知性(考え)と正しい行動(ための勇気)で
正しいというものが「愛」から発する。

仁義なき戦いとは、それが存在しない戦いなのだ。
だから不毛に陥ってしまう。

然るに、その不毛の結果から「仁義」のないことを
問題にするのではなく、「戦い」を問題にする
こういった思考や発想が現在主流になってしまっている。

発想として性急すぎるというか手っ取り早い。
合理的なようで、現実的ではないとわたしは思う。つまり、

戦いを否定、拒絶できるものなのか?

それをできると考えるところに驕りがあり、過信があると
わたしは思います。いや弊害があるとしておこう。
戦いを禁じても禁じられるものではない。
戦い、暴力、横暴を封印し棚上げしてしまうと
それが「特権・利権」となって、悪用されてしまう。
これが弊害だ。

人間の体内にだって善玉菌と悪玉菌が戦っているわけで
風邪のビールスに現在わたしは冒されていますが
体内で免疫防衛軍が必死に戦っている真っ最中です。
熱もでますわ(汗)

ま、そんなところで
JJ.のせいで横道にそれましたが
このへんで「ガマン」の項をまとめたいと思います。

日本には「石の上にも三年」という諺がありますが
これはあくまでも仕事を覚える、慣れるための
ときのためのもの。

その恋愛とかその人間関係は仕事ではありません。
もっとも、それを(その失敗を)糧にしてというなら話は別ですが。

なんにしても
我慢してもラチがあかない
どころか、悪化することが十分あることを
しっかりと確認把握しないといけない。
我慢は万能ではないのです。
(↑万能薬といってるわけで、我慢を否定してるわけじゃない)

人生観もしかり
たとえば、受験勉強の苦行を「我慢」として
それをクリアすれば「楽」ができる。
こういった思想や発想は間違っている。

良い学校→一流企業→「幸せ」な人生

にはなりません。きっぱり!

恋愛も人間関係も同じ。以上