あかんたれブルース

継続はチカラかな

国益

知性の行方(12)


>次の記事を馬太郎の想う国家主義で説明をお願いします。

これもまた原理、国粋、民族など同様に
国家>個人と解釈させるのでマイナスイメージに
捉えられているようです。
敢てそういう生臭いものに関わることもないのでしょうが
言葉のトリックというか雰囲気だけで
物事を判断する風潮をなんとか変えたいので
記事にしてみます。
ただし、これはあくまでも私の考える国家主義です。

早い話が、

親亀コケたら皆コケる。

簡潔に記せばこれだけ。これを否定できる理屈はあるのか?

理屈ではそうでも心情的には
「国家のために個人が犠牲になるなんて間違ってる!」
となるでしょう。
しかし、
そういう犠牲を条件に行使せねばならない国家主義というもに
問題があるだけではないのかなあ。

たとえば、一人の人間と日本国民全体の生命を秤にかけて
どっちが優先されるべきか。
個人の生活を優先させるために国民全体の生活が疲弊しても
いいのか。

当たり前のことですが、親亀が肝心だ。

しかし、そういうことを選択する、考えることを
嫌がり、逃避させ、否定してきたのが
戦後の日本の民主主義だ。
ここに間違いなく大きな問題がある。

で、まず
国家>個人 という図式から考え直す必要があります。

ミクロとマクロは繋がっている。
つまり、個人は国家そのものだ。
だから、
国家=個人 と考えるできだ。としてみましょう。

国益云々という言葉をよく使いますが
その利益が国民に、個人に還元されない
いきわたらない利益なんて嘘だ。そんなものは国益じゃない。
利権じゃないか。

原発事故以前、辛口の有識者
なにかのタイミングで
そういう企業利益の恩恵から
私達は豊かなんだというニュアンスの事をいってましたが
あんなのはマヤカシだ。

国家が存続しても国民がいなくてはダメなのです。
親亀はどっちなんでしょうか?
うさぎはさびしいと死んでしまう。
親亀は小亀がいないと生きていけない。いや存在しない。

やっぱりイコールとしか考えられない。
だから国家主義でいいんですよ。何も心配することはない。
国家主義国民主義と同意語とすべきなんでしょうね。
毅然と。


次に問題になるのが国家という尺度です。
「自分の国させよければ」
20世紀までの「国益」はこういう自己中なものでした。

しかし、世界経済の状況をみて
ここまで入り組んだ関係性からそういう具合にはいかない。
ギリシャが危ういと欧州が日本が世界が不味くなる。
北朝鮮なんてちっぽけな国でも崩壊したら
東アジアは大混乱してしまう。
そこで上手く立ち回って利ザヤをなんて危ない危ない。

これは、
国家、国境という尺度が変容しているんだ。
それを無理して頑固にこれまでの尺度に照らし合わせて
考えるから
無理や矛盾が生じるんではないでしょうかね。
たしかに、
宗教や民族や文化とか様々な相違があるでしょうが
そういったものを統一しようという所に
不合理があった。
そう結論付けるのに、まだ、これ以上の
時間の労力、厄災、悲劇が必要なのか?

自分さえよければ、というやり方ではもうどうにもならない。

それは、国家であっても、個人であっても、です。

既存の国家主義ではなく
いまの現状、現実にあった国家主義というものを
私達はみつめていかなければならないと思います。

身動きがとれない原因はそこだと思います。