あかんたれブルース

継続はチカラかな

危険な午後の紅茶



昨日の記事に挿入したのは
吉田拓郎の「僕の唄はサヨナラだけ」という歌の歌詞で
そりゃあ懐かしいわたしらが高校時代のものです。
作詞も拓郎。
すごい歌詞だと思わない?

愛を懐疑するというよりも
その薄っぺらい愛のお題目に背を向ける

わたしは二十代三十代ずっと
よくこの歌を口ずさんでいたものです。

わたしは世間一般で語られる愛を懐疑していた。
それを一度も口にしない。絶対に、と決めていた。
ストイックな人間なのだ。

愛という言葉を封印したまま
異性を口説き、結婚し、子供を作った。

たぶん一生、わたしの口から愛という言葉は零れない。



えっ? いまですか。
毎日が愛の謝恩セールで大バーゲンです。持ってけドロボー!
いったい馬太郎に何があったのか?
詳しくは明日の朝刊で!


日本の近代化っていうのは明治維新からスタートした。
そりゃあもう得意の突貫工事です。
西洋文明を闇雲にランチバイキング食べ放題だ。
そういう姿勢に警告を発する知識人もいたんですよ。
高橋健三とか杉浦重剛とか、いまでは国粋主義者とかいわれるけれど
違うんだ、日本主義という言葉のほうが誤解されない。
欧米文明を懐疑したなかには夏目漱石もいました。

日本は、日本人は、近代化というものを
工業とか経済システムの発展だけに集約させた。
それによる豊かさかな。
本来の近代化とは、それと同時に
もっと精神的な豊かさが付随しているのですが、
それがお留守なのだ。
民主主義とか個人主義、合理主義の履き違えもそこにある。
脱原発が足踏み状態なのもそれが原因)

そして、愛も置き去りにされたのだ。

そこから矛盾が垂れ流し

そう簡単に愛を信奉してくれるなよ。
結婚したら人を愛しちゃいけないのか?
年よりは恋愛しちゃいけないのか?
男と女の友情は成立しないのか?

そういうことにいろいろ理屈をいうものもいるけれど
わたしはそんなんじゃ納得できなかった。できません!

割り切ることだけが、大人の処世というものか。
そんな大人になんざなりたかあねえ
と思ったね。

あの頃、拓郎はまだ二十代だったんじゃないだろうか
「僕の唄はサヨナラだけ」には
彼の誠実な、正当な、苛立ちがある。
それがわたしに考えさせるヒントととなって
少数派であることを厭わない勇気にもなった。

今回の練炭事件は練炭女の云々ではなく
置き去りにしてしまった愛の認識にあると思います。
そういった迂闊さ、曖昧さ、隙が、ぽか~んが
魔物を呼び込んでしまうのだ。

わかりやすいケースだと思うのだが
それでもシラをきるつもりなのか。

もう一、二回
恋がしてみたかった?
ヘソで茶を沸かしてるんじゃない。
火傷するぞ。