あかんたれブルース

継続はチカラかな

不合理・非効率の実態

ニッポンの教育改革(7)


高校・大学の受験システムをベストとはいわないまでも
現在の現実社会において最もベターではないかという
人がいます。

その場合、これ以上の「フェア」はないではないかと主張する。

端的にいって、それは責任回避であって
言い訳にしかすぎない。

その問題点は何かとすれば、
その教育機関の物理的なキャパシティーがまずあげられます。
定員のことです。
仮に、100人しか収容できなとして定員は100名
のところに
2000人の応募者があれば、試験で篩にかけざるおえない。

うち、1500人が平均点数90点でも1400人は落とさなければならない。
だから、試験問題は高度にカルト的になっていきます。
90点以上が多くてはダメなのです。
定員以上の満点をとるものがでたら困るわけだ。

  これは五段階評で5が何人4が何人というのと同じ
  優秀な子が30人いても5と4と3に振り分けられる。
  反対にアホが50人だと
  そこから5と4と3に振り分けられる。

だから、元寇のときのモンゴル軍の師団長の名前を述べよ。
とかとんでもない出題があったりする。
それに対しての批判はいっさいタブーです。
(学校関係者が)下手にそんなことをすれば、
次に批判の矛先がくる。(その人も出題者なので)
村社会なのだ。そういう掟があるようです。
出題者も大変な苦労なわけだ。

また、塾や予備校ではそういう教科書に出てないことを教えて
必要付加価値を高めて金を取る。

しかし、この苦労や努力って・・・不合理・非効率じゃないか?

逆に定員割れだと、誰でも合格しちゃう。

こういうことを競争原理としたり顔でいえるものなのか?

つまり、ペーパー試験に依存しすぎなのだ。
合格不合格を判断する責任をできるだけ回避させたい
担当者の都合もある。

フェアという指摘は
そういう難問であっても、時間と努力とお金をかけたことは
評価できるわけであって、そのことには誰もどこからも
クレームはこない。だからフェアである、という説です。

ペーパー試験以外になると面接や内申書など
三者の判断、査定がある。
そうなるとそこに好き嫌いなどエコヒイキが生まれる
可能性が生まれる、いやクレームがくることを警戒しているわけです。

学校機関は経営でもあります。
そこから一流大学一流企業に何人合格したかで
世間の見る目も違ってくる。だから内申書にも特定の生徒には
色をつけることもあるでしょう。
それは国公立でも同じ。

また、面接の10分15分でその人物を査定するのは至難だ。
後で問題が起きた場合の予防線としても
ペーパーテストの成績(出身学校と偏差値は効果抜群)は
エクスキューズになるわけです。

ここに教育問題が日本の社会問題のツボがある。
それは大人の、社会の、無責任さの何者でもない。


ここからは私見ですのであしからず

100人の定員に1500人の合格者いたら
1500人に合格通知を出せばいいじゃないだろうか。
そのなかで物理的な定員の問題があれば
くじ引きでもいい。(実際にくじ制度はあります)

なぜ、そこで試験問題を難解にして
学校で教えていない問題まで駆使して篩にかける
必要があるのか、不思議です。

それこそ、教育の格差と批判を受ける
要因になるのではないか?
フェアじゃない。

また、くじでなくとも
ネットがここまで普及し、放送大学もあるわけですから
通信教育制を拡大・活用すればよいとも思う。
スカイプを利用して少人数制のゼミも可能です。
ネットの麻雀ゲームのように。

要は大学四年間でどれだけ学んだかであって
学ぶ基本は「独学」にあります。
教育は、あくまでも補足的なもので
学ぶ側の自発の探究心が重要です。

定員制を理由に付加価値、ブランドイメージを高めようと
いう気持ちが働くのでしょうが
企業側がもうそれを信奉しなくなってきている以上
こういった古い発想じゃああかんよね。


不合理・非効率の何者でもない。