あかんたれブルース

継続はチカラかな

裸足でバラを踏め



愚禿。

わたしのことじゃない。わたしはハゲてない!

「ぐとく」と読みます。
これ、親鸞聖人が自分で自分のことを称した、自称。
師匠の法然聖人も「愚痴の法然房」と称した。

これ、謙遜でもなんでもない。
かといって、安っぽい自虐でもありません。
浄土系は他力本願ですから
自分のことを「凡夫」と認めているわけです。

こういう謙虚さが、いまの日本人にはない。

浄土宗とか真宗じゃない、とか関係ない。
日本の仏教のおおもとともいうべき
総合仏教天台宗最澄さんだって「愚中の極愚」ですからね。
極悪ですよ極悪、昔の足立区の暴走族みたいですね(汗)。

わたしは宗教とか、教団教会とかは好きくありません。
特に新興宗教とかアレルギー体質です。
現世利益でつる手口や
前世来世でどうのこうの説くスピリチュアル系まで含めて
肌にあいません。

壺や印鑑や仏像は間にあってます。畳もけっこう!

ただ、信仰心はあっていいと思うし、たまにはお寺や神社に
行くのもいいし、お墓参りも行くべきだと思う。

そういうのが、人間のもって生まれた悪い癖
「驕り」というものを、抑えてくれる
ひとつの手段だとも思うのです。

キリスト教は罪深さを前提にしました。
仏教ではみんな下の下の品の凡夫と認識します。

世の中が老若男女上から下までこうワガママに
なってしまった現在、もう一度、宗教とか信仰とか
問い直してみてもいいかもしれない。
それは宗教学とか、哲学みたいな学問としてですけどね。

だれかがいっていた・・・
日本の戦後教育のひとつの失敗は宗教について
学ばせなかったことだと。


下駄をはいた生き方って不自由なものです。
鎧や仮面をつけた生き方もつらい。

裸足で走りまわれば、
足の裏に小石が当たって痛いときもあるし
ときにはクギを刺すこともありました。
足は汚れるしね。

でも、ひんやりとした地面が心地よかったりする。
熱い大地が刺激的だったりする。
だから運動靴をいつも脱ぎ捨てて、わたしたちは
裸足になった、ものです。

いまはどこもかしこもアスファルト
裸足の子供は見かけない。


裸足の駄馬坊より