あかんたれブルース

継続はチカラかな

結局学校の都合じゃなねえか

亡国の教育勅語(2)


よく入試のペーパーテストをやめるというと
「そんな夢みたいなこといっても
 医者とか弁護士とか特異な職業はどうするんですか!」

と騒ぎだす人がいる。

そんなもの医師国家試験もあれば司法試験もあるだろうよ。
というと我に返って黙るけれど。
なんでそんなに心配するのか馬太郎には
ちっともわからない。

でね、この資格試験とかあるでしょ。
これが絶対評価なわけだ。
ある一定の基準を定めて、それをクリアできれば
何人でも合格できる。
ときには一人も合格しないときだってありますよ。

絶対評価が甘い査定だっていう固定観念はやめましょう。

対して、入試のペーパー試験っていうのは
相対評価なんだな。
上から何番目っていう感じで定員のラインで足きりをする。

たとえば定員100人で
95点以上が95人いたら94点の受験生は5人しか合格しない。

次の年は不作で75点以上が20人しかいなければ
あとの80人を拾っていって最後の一人は32点だったって
こともあるわけです。

昨年、93点で落ちた受験生と
今年、32点で合格した受験生。こういう不思議な現象が起きる。

これ、すべて学校側の都合なんですね。
安定した経営が目的なわけだ。

学校側も工夫してますよ。100点が1万人出ないように
難しくします。
教科書に出てないカルト問題や教習所の引っ掛け問題みたいに。
塾ではこれを教えているわけですね。

元寇のときのモンゴル側の師団長名とか。

こんなのわたしだって知らない!
また、知っててどうなるんだあああああ!
すべて学校の都合なのです。
受験生の点数をまんべんなく散らす、ためだ。

入試のペーパー試験の問題のポイントがここにある。
やれ現実論だなんだと騒ぎ出す人がいるけれど

 学校教育機関相対評価試験と
 資格取得試験の絶対評価試験

欧米なみの制度にもっていきたいけれど
これが日本じゃできない。(訳は以前記事にしましたが)
その最大の理由が学校側の都合なのだ。

なにか悪事を働いているわけではないのですが
なんというか工夫というか努力が足らない。
企業努力といってもいいでしょう。
だってそのために様々な弊害が出てるわけです。

その弊害はみんな認めてる。
認めたうえで、仕方ないという。そこに現実という言葉を使う。

それは言い訳でしかないではないか。

ええっ? 競争原理?
だったらなおのこと、そうしなさいな。
そういうのを理論のすり替えっていうんですよ。
どっかも工場が公害を撒き散らして
コスト的に致し方ないと言い訳してるようなものです。
1960年代ぐらいの話じゃないか。

遅れているんですよ。

それが半世紀以上続いて、この始末です。
ま、企業努力というならば少子化で否応なく
努力はやんないといけないし、そこの競争原理も働く。
自分たちの問題としてです。

ただ、その受け手側である私達国民がそれをただ待ってる
だけでいいのかな、ということですね。
こういう制度だと国が亡んでしまう。
戦前の朝鮮や中国などがよい例です。
東洋の科挙制度にはそういう弊害がある。


日本の教育改革の根幹は
相対評価から絶対評価への転換にある。

どうやったら相対評価に移行できるか?
つまり、定員という問題をどうクリアするか?




続く