あかんたれブルース

継続はチカラかな

目的、目標が違ってる。

亡国の教育勅語(4)

りんちゃんからこういうコメントをもらった。

>学力だけに目線を行かせるのではなくて
>総合的な子供の成長に目を向ければ
>学力だって
>ついて来ると信じています。


こういう意見を理想論とか夢見たさんとバカにする人もいる。
確かに、ゆとり教育が否定され
都内では授業数を増やそうと躍起になって
三学期制を前期後期の二学期制にしたところ
平均学力の数値が下がったそうです。
一回分の中間・期末テストがなくなった分
生徒たちが勉強しなくなった結果だという。
それはあると思う。ただ・・・

そのことで、生徒なんていうものは
テストで締め付けないと勉強しないんだ。という

まあ、一理ぐらいはあるけれど、そうじゃない。

それは時間軸の問題であり
最初はそうかもしれないけれど
根本は、勉強が面白くないつまらない嫌いが原因だ。

ここで、学校教育で教えられる、教えるべきものって
なんだろうかと考えてみます。

日本の場合はもともとが寺子屋教育で
読み書きソロバン四書五経
往来という手紙の書き方を教わっていた。
江戸時代の識字率、教養が世界一だったって話
聞いたことあるでしょう。

西洋での学校教育っていうのは軍隊から発しました。
ランドセルは陸軍学校の名残りだし
セーラー服は海軍だね。
神学校もあっただろうけれど、大体は兵学校からなのだ。

そう考えたとき、学校教育とか基礎学力って、なに?

最近は世界レベルがどうのこうのっていうけれど
その査定は、その検査方法ってなんなんだ。
そういうものばっかりにふりまわされているから
本の学校教育は空洞化しちゃってるんじゃないかな。

読み書きができない。これ基本的問題じゃないのか?

学校で何が教えられんだろう?
なにをもって基礎学力として、義務教育とか
一般教養とするのか、もう一度考えてみようよ。

物言いもわからない、表現力の低下
察せない汲めない、感性の埋没
恥の文化の国といわれながら、なにが恥なのかわからい。
美徳というものがバカにされる合理主義。

学校で何を教えられ、教えなければならないのか。

勉強なんてものは、基本は独学なんだ。
そういうものを学校で学ぼうとする根性が間違っている。
とわたしは思う。

学校はそのための道筋をつける、手助けをする場だと思う。
それをやらずに、詰め込んでノルマ稼いでも
生徒はまったく興味を示さなくなっている。

発展途上国には紛争地域には学びたくても学べない
子供たちがいる。と指摘する人もいる。
そうだと思う。
こんなに豊かで恵まれた国なのにと。

しかし、そんな比較が何になるのか?
問題は、与えても拒む、厭う、環境にあるのではないか。
学ばなくて生きていけるから、学ばない選択が生まれてしまう。
勉強とか学習とか教育を利権にしてはいけない。

国が豊かであるということは
多くの民が学ぶことで幸せを感じることだと思う。

興味が定まれば、子供は、人間は
自ずと好奇心が湧き探求するものです。

学校教育でそういうもを教えることはできないかもしれない。
ただ、そういう道筋をたてる手助けや切っ掛けやヒントは
作れると思います。
少なくとも足を引っ張るようなことは
してはいけないのだ。
もし不幸にしてそういう仕組みになっていたとしたら
代えればいいだけのことだと思う。

りんちゃんがいう
「学力だってついてくる」はその意味で正しい。

学力は目指すものでなく、それが目的ではなく
結果として後からついてくるものです。
お金と一緒。