あかんたれブルース

継続はチカラかな

めでたくてけっこう

根本的な勘違い(2)


一昨日の記事「目的、目標が違ってる。」に対する
りんちゃんのコメント、読んでくれ。

ある一人の女性の生き方に感動し
その在り方に対して、

>現実とはなんでしょうか?
>彼女も現実です
>私は彼女のように生きたいです。

これがりんちゃんからの沁みるメッセージだ。

それでも、
こういった気高い生き方に対して
目を背けるものがいる。
物陰に隠れて嗤うものもいる。
首をすくめて批判する否定するものがいます。

こういう現実を認めない
リアリストと名乗るものたちがいます。

彼らの唱える「現実論」は常に言い訳でしかない。
自分に都合のよいパーツだけを持ち寄って
構成するものだ。
それ自体は決して嘘ではないかもしれないが、
意図的に集められた事実だけで構成されるそれは
巧妙な嘘に仕立て上げてられている。

自己肯定するために否定する
その手口はもうとっくに見透かされているのさ。
すくなくとも見えてる者には。


彼らは気高いものが眩しいのだ。
気恥ずかしくなって、綺麗事だと騒ぎ出す。
「裏じゃどうだかわからい」
「そんな事あるわけないじゃないですか」と
顔を歪めて言い募るのだ。

日本人の美徳は数多くあります。
が、そうでないものに「嫉妬」がある。
妬みや嫉みがある。

自由と平等を履き違えてしまった日本人は
やたらめったら嫉妬して、はばからない。
いや、嫉妬というよりも
これは怖れだな。

美しいものや気高いもに怖れを抱いている。
ドラキュラが十字架や聖水やニンニクや光を嫌うのと一緒だ。

ひとつは裏切られることに対する怖れだ。
もうひとつは、己の浅ましさを認める怖れだ。
そして、取り残される恐れだ。

常に保とうと必死なのだ。
変わった者、異なる事、違う行為には神経を尖らせる。

それを批判し否定し邪魔し攻撃する。
そのとき「現実」という言葉を利用している。

それも現実だ。しかし、こっちだって現実だ。

「だからあの人はだめなんだよ」(勝手に決めるな!)
「あの人は特別なの。真似しちゃだめ」(そうくるか)
「あれじゃ先が思いやられるわ」(千里眼なのか?)
「おめでたい人だね」(それ以上のなにがあるというのか)
「現実は厳しい」(いや、お前が甘いだけだ)
「普通はこうだ」(普通ってなんだ。普通にはあまり転ばないぞ)
「後で泣いても知らないよ」(知らん顔するくせに)
「悪い事はいわないやめとけ」(善悪を司っているお前は何者だ)



わたしには歴史を通して
憧れる人たちがいる。

  彼らは裏切らない。

  疑わない。彼らは強い。そしてやさしい。
  そんなものに憧れる。眩しい、羨ましい、近づきたいと思う。
  彼らのように生きたい。彼らのように死にたい。
  そして、彼らのような友をもちたい。

  歴史を学ぶ、歴史から学ぶということは、
  そういうことではないかと思う。


これは昨年出した文庫本のあとがきの
最後の一節です。
まぎれもないわたしの本音だ。
これがわたしの現実です。

わたしもりんちゃんと一緒だな。