あかんたれブルース

継続はチカラかな

葦子のトグロ巻き



葦子がトグロを巻いている。

人間は考える葦といわれるが、葦子は何も考えない。
そんな突っ張った生き方が葦子の生きる姿勢だ。

それもひとつの美学ではあるけれど、
突っ張ってばかりでは生きられないのも人生だ。

葦子のような人は実は少なくない。
レアケースではないのだ。
その原因のひとつに日本の教育の在り方があり、
彼女彼らを苛立たせた、いい加減な大人たちにも原因はある。

ブリキの太鼓』(1979年)という古い映画があった。
主人公は3歳にして大人の世界に愛想を尽かし、そこで
成長を停止した、というストーリーだった。

葦子たちに、それほどの知性や根性があったわけではないけれど
彼らも大人になることをどこかで否定しているし、
その成長を十代でストップさせてもいるようだ。

彼らのイメージする大人は、ダサイのだろう。


葦子は今日も飲んだくれている。
アルコール依存症といえばそうだろうけれど、
その飲み方はどこか子供じみている。
まるで高校生の酒の飲み方、酒に対する価値観、依存・・・

本当にあいつは酒が好きなんだろうか?
旨いと思って飲んでいるのだろうか?

銀座の老舗のビアホールで生ジョッキに氷を入れて飲む女。
金に糸目はつけない生活をしているのに
あいつが飲むのは発泡酒クリアアサヒだ。

といって、高い酒にウンチクを唱えだす連中の酒なんて
わたしは興味はまったくないし、葦子のそれはそれで
潔くもあるとは思う。たださ、

いらぬお節介は承知之助で、観てて痛い。


あいつは自分のことを馬鹿だいっている。
だいたいは当たっているけれど、100%そうじゃない。

あいつが相撲取りなら張り手しか知らない馬鹿力士。
外人だったら「NO!」しか喋れない馬鹿外人。
中華料理人だったら餃子しか出さない馬鹿コック。
読書家だったら『ああ無情』しか読まないニヒリスト馬鹿。
ドライバーだったら左右にハンドルをきれない
おサルの運転手だ。
しょっちゅうぶつかっている。いくら新車に買い換えても
バンパーは凹んで傷だらけ、昨日も今日もアクセル全開で
白い煙をもうもうと上げている。前は人家の塀だぞ。

「関係ないやん」

これが葦子の常套句だ。
いや、葦子たちの、だ。

いったい誰がこの台詞を使いだしたのだろうか?
たぶん最初のニュアンスはそうじゃななかったのに
誤った使い方で流布されてしまったんだろう。

 ♪ ジレッたいジレッい 何歳に見えても私誰でも
   ジレッたいジレッい 私は私よ関係ないわ
   特別じゃないどこにもいるわ
   ワ・タ・シ 少女A

葦子、もうお前は少女でも未成年でも、若くもない大人だ。

考えることを煩わし思ってはいけない。
突っ張るだけ、押すだけじゃあ開かない扉もある。

引いてみたり、横にガラガラってしてみたり
鍵がかかってるのかもしれないし、ボタンがあるのかもしれない。

考えるためのパーツがないのなら拾い集めればいいさ。
時間はある。第一、いま暇で退屈しているんだろう。

その退屈をイライラして噛み付いてばかりじゃ
身が持たないよ。


人間は飽きるものだ。
酒飲んでも空騒ぎしても飽きる。
安っぽい恋愛ゲームなんてひと月で飽きる。
何を食っても喉元過ぎればうんこになってでるだけ。
ステーキも寿司も串カツもフレンチも飽きる。
金は確実に目減りする。
たとえ大金を手にしても、持ったその場から
目減りしていくことに苛まれるだけ。

退屈と不安と恐れ、これがこの世の地獄だぜ。
極楽も地獄も紙一重
すべてこの世にそれはある。
せっかく拾った命なら
なにを好き好んで地獄に仕立てることはないじゃないか。

「私は私よ関係ないわ」

お前はお前だ。誰でもない。
考えることを怖れていけない。
人間は考える葦だという。

人間はみんな死ぬ。これはすべての人間の宿命だ。
早いとか遅いとか関係ない。
せっかく人間に生まれてきたのだから、
葦子、人間になって、死になさい。