あかんたれブルース

継続はチカラかな

尖閣諸島の領有権



尖閣諸島竹島の領有権問題が加熱しています。

領有権について考えてみたいと思う。

台湾征伐って知ってる?

台湾出兵とか、牡丹社事件とかいわれる
明治7年に起きた日本初の(国際紛争)海外出兵事件。

その原因は明治4年に琉球御用船が台風のために遭難
台湾南部に漂着し、先住民族に助けを求めましたが
言葉が通じず、63名中54名が殺害された。

難を逃れた12名が漢人移民によって助けられ
台湾府に保護されて福建省経由で宮古島に送還された。

無抵抗の一般人が54名も首を斬られて殺されたわけだ。
明治政府は清国に抗議し賠償を求めた。

ところが、清国側は管轄外として否定した。
ことが事の発端で、そこ間の明治6年にも略奪事件が起き、
国民の安全という点から台湾問題は加熱したのです。

台湾の先住民族というのは大陸から移住してきた漢民族
山間部に追いやられてしまった
高砂族とか牡丹族とかのことです。
首狩の習慣があって、天候不良や不吉があると
山から下りてきて人間(首)狩りをする困ったちゃんだった。

当時明治政府は憲法制定から国会開設に伴い
天皇中心政治に固執する岩倉具視と急進派の大隈重信が対立。
それを現実路線派の伊藤博文らが明治6年の政変で急進派を排除。
また、征韓論で意見が紛糾していた時代です。
それ以前に明治維新によって失業した不平士族の不満は
高まっていて、かなり危ない政情不安だった。

大久保利通征韓論よりも比較的問題解決の容易い
台湾出兵でその不満を解消させようという目論みもあったようで
台湾出兵は実行に移される。

ただ、日本側は出兵に関して
清国政府に事前に通達しなかったので後で揉めます。

出兵は西郷従道が率いる二個大隊3000名で
正規の鎮台は一個大隊。残りの一個大隊は
九州各地の士族が参加して編成されたものです。
玄洋社からも参加して
夢野久作の『近世快人伝』には奈良原至の章で
その模様が事細かく描かれていたりします。

また、この出兵に三井などの既成の財閥は二の足を踏み
新興の大倉喜八郎が抜擢され、これが切っ掛けで
新財閥創業の足がかりをつくった。

日本初の従軍記者として岸田吟香も台湾に渡り
現地リポートの『台湾従軍記』を東京日日新聞に連載した。

台湾は別名「フォルモサ(美しい島)」といわれますが
当時の台湾は風土病や衛生面でヒドイ環境で
邦人が10人チャレンジして
病死とか挫折して2人しか残らない。
過酷な土地だったのです。

清国統治時代以前は
鄭氏政権時代、オランダ統治時代と
支配者もコロコロ変わっていた。

貧しく、あまり価値のある土地じゃなかったんですね。

さて、台湾出兵が無事完了した後で
日本は出兵手続きの不備を清国と米国から訴えられますが
明治政府のお抱え外国人たちの働きで対処し、
「日清両国互換条款」の調印に漕ぎ着ける。

これによって、今回の出兵は保民の義挙と認められ、
遭難民に対する見舞金10万テール、
戦費賠償金40万テールを清国が日本側に支払い、
生蕃取締を保証するということになりました。

だけでなく、それまで曖昧だった琉球
日本側に帰順される大きな伏線となる事件でもあったのです。
琉球の帰属問題が決着するのは、
 日清戦争における日本の勝利つまり明治38年だ)

さて、中国が主張する尖閣諸島
日本に対して、中国と台湾も領有権を主張する。

台湾は蒋介石の国民党が共産党に敗れて
大陸から逃れて建国した国です。

中華民国の建国を
辛亥革命成功の日とすれば1911年(明治44年)
台北遷都とすれば1949年(昭和24年)
台湾に領有権を主張する資格があるのかなあ・・・

因みに中華人民共和国(中国)の建国年月日も同じです。
こっちは、ま、中国本宅にかまえているので
一応前王朝からの権利を踏襲するとしてもですが、
しかし、
その台湾にさえも問題が起こった場合
「管轄外」として責任をとろうとしなかった
のが前王朝清国の姿勢だったわけだ。

ましてや、
尖閣諸島無人島で発見されたのは
明治18年(以降から)に無人島であること、
清国の支配下にないことが調査確認され
明治28年に正式に
日本の領土に編入することを閣議決定した。

わけだ。



なにを騒ぐことがあるのだろうか?