あかんたれブルース

継続はチカラかな

別な角度からのアプローチ

精神科医の乱心(6)


運命と宿命の違いについては
これまでの過去記事で既に理解されていると思う。
はずなのですが・・・

宿命は(先天的な)絶対のもの。
たとえば、あなたがこの時代に日本人として
女性としてあなたの両親から生まれてきたこと。
わたしがこの時代に日本人と
イタリア人のハーフとして
罪深きナイスミドルに生まれてきたこと。

対して運命はあなたに常に変化を与えようとする
天意のアプローチみたいなものだ。
兆しね。

 ルネサンス時代の天才マキャヴェッリ
 運命を深く考察し、それに抗うことは
 無謀だと警告を発した。
 そのうえで、彼は
 しかし、絶対でもないとしている。
 力量と時代性が、それを左右する手立てだと
 非常に親切なアドバイスを残している。

運命と宿命は違う。
少なくとも運命の半分弱ぐらいは
選択権をもっています。

現在を分岐点にして
未来)運命→(現在)→宿命(過去
みたいに時間の経過から
運命は宿命に変わっていくわけだ。

宿命と運命、それにもうひとつ
立命というものがあります。

この立命こそが、わたしたちが生まれてきた
意味、意義、その人生のテーマであり
もっというならば、わたしたちが求めてやまない
幸せというもの正体だ。

これを、知り
それにそって生きることにすべてがある。

ところが、多くの人間はこれを知らずに
死んでいきます。気づかずに死んでいく。
現代の価値観に照らし合わせれば
それを知るか知らないかは大きな問題じゃない
かもしれません。
ほとんどの人はこういいます。
「平穏に」と
もうすこし欲深ければ「安泰」を願う。
知らぬが仏であり、
知れば知ったで大変な苦難を背負い込む
そのことを怖れていたりするので
君子でもないのに
危うきに近寄らない、処世も幅を利かしているけど。
そういった願望はほとんど叶わない。
これが現実というものです。
これがほとんどの人を苛む人生のヤキモキの原因だ。

自分は何者で、なんのために生まれてきたか。
ひと昔はこういった哲学的な悩みが
大きなテーマでしたが、いまじゃさっぱり流行らない。

なぜ、これが重要かというと
ここから昨日の記事の続きに結ぶわけだけど
タイミングとしての間の話です。

わたしたちはこれを幸せのための方策
の、ひとつであるとなんとなくは察しいる。
それは、これまでの経験から
その「間」がどんぴしゃで合ったときに
喜びを感じるからです。ラッキー!ってね。
また、この間が合わないところから
悩ましいことになったりする。でしょ

で、それをなんとかしたいと、まあ普通は
たとえ漠然ではあっても考えるわけだ。
しかし漠然とだから、ついつい
運不運といった偶発的なもので捉えたり、
相手の力量や相性のせいにしたり
また自分の不甲斐なさにとトホホだったり
とかなっちゃうよね。

また、それをテクニカルなものと考えてしまう
場合も往々にあるものです。
確かに、訓練でそれを磨くことは可能だけど
芸事みたいなものだけじゃないわけだし
結論からいってそれは至難であり十全じゃない。
それを否定してるわけじゃないよ。

もっと違う捉え方として、
この立命とか天命とか天意というものを
意識するのがとても効果的ではないかと
思うのです。

ええ、そんなの無理。と思わない。
確かにそれがわかれば苦労はしないんだけど
わかるわからないは別にして、
すでに答えのヒントは出てるんじゃないかなあ。

つまり、自分の過去を振り返って
どういう人であり、どういうことをやってきて
どういう人でありたいのか。
取り敢えず、ここに「なりたい自分」というものを
イメージすることはできる。
真面目に、恥しがらないで、考える。

でね、それにそって行動するとき、
不思議と絶妙の間が生まれてくるものです。

自ずと、そこで体が動くよ
勝手に言葉が、アイデアが、あふれ出る。
多少の失敗なんかまったく関係ない。
なにかが背中を押してくれたりする。
そんな不思議な体験をするものだ。

この方法がストイックではなないと
思えるのは、やってて気持ちがいいことです。
つまり、もう既にそこに幸福感があるってこと。


次回は運命の人というテーマです。