あかんたれブルース

継続はチカラかな

浅まし温泉殺人事件



昨日の「浅ましさ」の記事に
ムッシュが面白いコメントを入れてくれた。

>たとえ、
>浅ましさに、弁解の余地がないにしても
>何が浅ましいかについては、
>いくらでも議論の余地がある。

のではないかと
>理屈と膏薬は・・・・

(何にでもつく)ということですかね。


浅ましさというものは、個人的なものだ。
記事は
 「恥しくない自分
 その恥とはなんだろう?」から展開されいる。

アレックスはそれを卑怯として、
馬太郎はもっと踏み込んで浅ましさとした。

浅ましさを恥とするのは、あくまでも
自分個人の問題であります。
だから、勝海舟
「行いは己のもの。批判は他人のもの。 
 知ったことではない」を添えたのです。

で、たとえば全国日本人健全化運動として
有識者を集めて「浅ましさ」を提議づけ
それを各自治体に政令として施行するかなんて
ナンセンスなのだ。

Aさんを浅ましいと考えるBさん
でもAさんはそんなに浅ましいとかは考えない。
そのことを聞いたCさんはそう考えるBさんを
むしろ浅ましいと思った。とかね

だから、議論の余地がある?

そんなことやっても無駄だよ。
これはセンスなんだから。

うちのあほ寮には複数人
この浅ましさを忌み嫌う
小学4年生から高校生レベルのものがいる。
それでなんだかんだ揉めたりしてるようです。
そういうのをほおっておくことが
我慢ならない、また卑怯だと思うようだ。
その気持ちわからんでもない。

わたしはよく「自分と他人は違う」と諭しますが、
まあ半分わかったようなわからんようで
釈然とせず、またどこかでやらかす。

浅ましい人間を批判否定攻撃するよりも
浅ましくない自分であることが大切だし
そういう自分が浅ましくないと認める人を
みつけて交誼を結べばいいんじゃないだろうか。

これはあくまでも個人的な基準であって
他人にどうこういうものじゃない。

そんなものが社会のお約束になって
たとえば「いい人」みたいに流布されてしまって
定番化された日には上っ面のいい人
浅ましくない人間が厄介このうえない。

そういうのは自己責任、結果責任なんだから
いいの。別に好き好きで。

そんな法律的なものよりも
自分が観てる、観られている。というほうが
数段緊張感があっていいよ。
昔はこういうのが利いていたんだけど
いまはさっぱりですからね。

だからわたしはじっとみつめてる
自分が浅ましくないかどうか
そして、自分と同じように
それを恥として一生懸命ふんばってり人を
発見してはホッとして嬉しくなるのだ。

へへへっ、いるじゃん(笑)

そうでない人は多いけれど
それが露見する場面ではがっかりもするけれど
さびしくはなるけれど、いいんだよ。


どういう人とどう付き合っているか
これは大きなことだと思う。
数じゃなくて質の問題でもある。

すくなくとも
うちのシスターズときどきブラザーは
わたしからみて決して浅ましさはない。
どんなに欠点があろうが規格外であっても
それが認められればわたしは満足だ。

そうじゃなかったら、付き合わない。
それをひどいという人がいても
わたしそうは思わない。

行いは己のもの。批判は他人のもの。 
知ったことではない。